第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。

1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?

大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?

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