偉人・敗北からの教訓
第10回「近藤勇・先を越された甲府入城」
レンタル期間:7日間
あらすじ
幕末、池田屋事件をはじめ、京都の治安維持などで活躍した新撰組の局長・近藤勇の敗北を紐解き、今を生きる私たちにとっても役立つ教訓を探る。
旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸に敗走した後、勇は江戸に進軍する新政府軍を迎え撃つべく甲府城を目指す。しかし、板垣退助率いる新政府軍が一足早く甲府入城を果たし、勇は戊辰戦争の一つ、甲州勝沼の戦いで敗北を喫する。
勇はなぜ新政府軍より早く甲府城を押さえることができなかったのか?
旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れ、江戸に敗走した後、勇は江戸に進軍する新政府軍を迎え撃つべく甲府城を目指す。しかし、板垣退助率いる新政府軍が一足早く甲府入城を果たし、勇は戊辰戦争の一つ、甲州勝沼の戦いで敗北を喫する。
勇はなぜ新政府軍より早く甲府城を押さえることができなかったのか?
エピソード
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第75回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原②島津義弘」
兄・島津義久と共に島津家の発展に尽くした島津義弘の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、島津貴久の次男として薩摩国に生まれた義弘は20歳で初陣を飾り、兄・義久が領国経営に専念する中、合戦の大将として勢力拡大を目指す。日向の伊東氏や豊後の大友氏を駆逐し、九州の大半を制圧するが、豊臣秀吉の大軍に屈する。この頃から、兄弟の間に溝が生じる。豊臣政権が義弘を島津家の当主として扱ったからだ。
義弘は文禄の役では出陣が遅れ、屈辱を味わうが、慶長の役では獅子奮迅の活躍を見せる。秀吉没後、豊臣大名が二分して覇権を争うと、義弘は当初、東軍に加わる予定だったが、急遽、西軍として参加。しかし、義弘が率いた兵はわずか1500で、思い描いたような活躍ができない。やがて、西軍の敗色が濃厚となると、諸将が散り散りとなり、義弘も撤退せざるを得なかった。義弘はなぜ、わずかな兵で戦わざるを得なかったのか?
関ヶ原に孤立した義弘は命がけの敵中突破を敢行する。東軍・井伊直政の追撃を受けるが、島津隊が命を顧みず、応戦、直政に銃弾を放ち、重傷を負わせた。危機を脱した義弘は大坂城で人質となっていた妻らを奪還し、やっとのことで帰還した。徳川家との和平交渉の末、島津家は本領安堵と義弘の助命を勝ち取る。その後、義弘は85歳の長寿を全うした。今も多くの人々に慕われる、島津義弘の魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
兄・島津義久と共に島津家の発展に尽くした島津義弘の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、島津貴久の次男として薩摩国に生まれた義弘は20歳で初陣を飾り、兄・義久が領国経営に専念する中、合戦の大将として勢力拡大を目指す。日向の伊東氏や豊後の大友氏を駆逐し、九州の大半を制圧するが、豊臣秀吉の大軍に屈する。この頃から、兄弟の間に溝が生じる。豊臣政権が義弘を島津家の当主として扱ったからだ。
義弘は文禄の役では出陣が遅れ、屈辱を味わうが、慶長の役では獅子奮迅の活躍を見せる。秀吉没後、豊臣大名が二分して覇権を争うと、義弘は当初、東軍に加わる予定だったが、急遽、西軍として参加。しかし、義弘が率いた兵はわずか1500で、思い描いたような活躍ができない。やがて、西軍の敗色が濃厚となると、諸将が散り散りとなり、義弘も撤退せざるを得なかった。義弘はなぜ、わずかな兵で戦わざるを得なかったのか?
関ヶ原に孤立した義弘は命がけの敵中突破を敢行する。東軍・井伊直政の追撃を受けるが、島津隊が命を顧みず、応戦、直政に銃弾を放ち、重傷を負わせた。危機を脱した義弘は大坂城で人質となっていた妻らを奪還し、やっとのことで帰還した。徳川家との和平交渉の末、島津家は本領安堵と義弘の助命を勝ち取る。その後、義弘は85歳の長寿を全うした。今も多くの人々に慕われる、島津義弘の魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
無料
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第74回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原①井伊直政」
徳川四天王の一人、井伊直政の敗北から現代に通じる教訓を探る。1561年、井伊直親の嫡男として遠江国に生まれた直政は2歳の時に父・直親が主君・今川氏真に殺されたため、各地の寺で幼少期を過ごし、15歳で徳川家康の小姓となる。織田信長亡き後、旧武田領をめぐる戦いが起きると、直政は北条氏との講和交渉を担当。主君・家康が豊臣秀吉に臣従した後、小田原攻めで手柄を上げ、上野国箕輪に12万石を拝領した。
秀吉が亡くなり、家康が天下取りへと動き出すと、直政は黒田長政ら有力大名を味方に付けるべく、水面下で交渉にあたる。そして迎えた、天下分け目の関ヶ原。直政による多数派工作が実を結び、家康率いる東軍は見事、勝利を飾る。ところが、勝ち戦が決定した直後、直政は敵中突破を敢行した西軍・島津義弘隊を追撃し、被弾してしまう。直政はなぜ、自軍を勝利に導きながら深追いし、傷を負ってしまったのか?
関ヶ原の戦いの勝利に貢献した直政は戦後、傷も癒えぬまま、敗れた毛利家や島津家との講和交渉に奔走する。そして、石田三成の旧領である近江国佐和山に加増移封された直政はその後、琵琶湖のほとりに新たな居城の建設を計画した。今日の国宝、彦根城である。しかし、直政はその完成を見ることなく、波瀾の生涯に幕を降ろした。名門・井伊家の再興を見事に果たした直政の功績、そして、魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
徳川四天王の一人、井伊直政の敗北から現代に通じる教訓を探る。1561年、井伊直親の嫡男として遠江国に生まれた直政は2歳の時に父・直親が主君・今川氏真に殺されたため、各地の寺で幼少期を過ごし、15歳で徳川家康の小姓となる。織田信長亡き後、旧武田領をめぐる戦いが起きると、直政は北条氏との講和交渉を担当。主君・家康が豊臣秀吉に臣従した後、小田原攻めで手柄を上げ、上野国箕輪に12万石を拝領した。
秀吉が亡くなり、家康が天下取りへと動き出すと、直政は黒田長政ら有力大名を味方に付けるべく、水面下で交渉にあたる。そして迎えた、天下分け目の関ヶ原。直政による多数派工作が実を結び、家康率いる東軍は見事、勝利を飾る。ところが、勝ち戦が決定した直後、直政は敵中突破を敢行した西軍・島津義弘隊を追撃し、被弾してしまう。直政はなぜ、自軍を勝利に導きながら深追いし、傷を負ってしまったのか?
関ヶ原の戦いの勝利に貢献した直政は戦後、傷も癒えぬまま、敗れた毛利家や島津家との講和交渉に奔走する。そして、石田三成の旧領である近江国佐和山に加増移封された直政はその後、琵琶湖のほとりに新たな居城の建設を計画した。今日の国宝、彦根城である。しかし、直政はその完成を見ることなく、波瀾の生涯に幕を降ろした。名門・井伊家の再興を見事に果たした直政の功績、そして、魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
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第73回「武田信虎 息子・信玄に追放された名将」
戦国時代、甲斐統一を成し遂げた戦上手・武田信虎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1498年、甲斐に生まれた信虎は10代の若さで家督を継ぐと、国内の反対勢力を味方につけ、一族の抗争に終止符を打つ。そして、甲府を新たな拠点とし、軍事力を強化し、群雄割拠の甲斐統一に成功する。しかし、度重なる戦いで国内は疲弊、さらに不作が続き、飢饉が起こると、領民たちの不満が高まっていった。
信虎は苦境を脱すべく、今川氏や諏訪氏など敵対勢力と同盟を結び、信濃に進出、新たな領地を獲得し、本格的に勢力拡大を目指す。ところが、1541年、予期せぬ事態に見舞われる。信虎が同盟相手の今川氏を訪ね、駿河を訪れた際、息子・信玄と家臣らによって、突如、国境を閉鎖され、帰国することが不可能となってしまったのだ。名門・武田家を復活させた信虎はなぜ、国を追われてしまったのか?
その後、京都に住まいを移した信虎は将軍家から厚遇を受ける。1573年、十五代将軍・足利義昭と織田信長の対立が激化すると、義昭に従い、行動するが、室町幕府が滅亡すると、信虎の身も危うくなる。この年、息子・信玄が病死、翌年、信虎は高遠城で初めて孫の勝頼と対面する。しかし、勝頼に警戒され、甲府への帰還は許されなかった。信虎は最晩年をいかにして過ごしたのか?そして、今日の評価とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
戦国時代、甲斐統一を成し遂げた戦上手・武田信虎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1498年、甲斐に生まれた信虎は10代の若さで家督を継ぐと、国内の反対勢力を味方につけ、一族の抗争に終止符を打つ。そして、甲府を新たな拠点とし、軍事力を強化し、群雄割拠の甲斐統一に成功する。しかし、度重なる戦いで国内は疲弊、さらに不作が続き、飢饉が起こると、領民たちの不満が高まっていった。
信虎は苦境を脱すべく、今川氏や諏訪氏など敵対勢力と同盟を結び、信濃に進出、新たな領地を獲得し、本格的に勢力拡大を目指す。ところが、1541年、予期せぬ事態に見舞われる。信虎が同盟相手の今川氏を訪ね、駿河を訪れた際、息子・信玄と家臣らによって、突如、国境を閉鎖され、帰国することが不可能となってしまったのだ。名門・武田家を復活させた信虎はなぜ、国を追われてしまったのか?
その後、京都に住まいを移した信虎は将軍家から厚遇を受ける。1573年、十五代将軍・足利義昭と織田信長の対立が激化すると、義昭に従い、行動するが、室町幕府が滅亡すると、信虎の身も危うくなる。この年、息子・信玄が病死、翌年、信虎は高遠城で初めて孫の勝頼と対面する。しかし、勝頼に警戒され、甲府への帰還は許されなかった。信虎は最晩年をいかにして過ごしたのか?そして、今日の評価とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
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![真田昌幸と上田城を徹底深掘り!【偉人・敗北からの教訓 in お城EXPO】](/_next/image?url=https%3A%2F%2Fbs11plus-images.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com%2Fcontents%2Fb865196c-71a3-417a-8f0d-41f922630847.jpg&w=3840&q=75)
真田昌幸と上田城を徹底深掘り!【偉人・敗北からの教訓 in お城EXPO】
2024年12月21日パシフィコ横浜にてお城EXPO開城!!
イベントステージにて偉人・敗北からの教訓 in お城EXPOと題し、登壇いたしました!
当日の様子をBS11+見放題会員の皆様にお届け🌸
真田昌幸編も含め、ぜひご覧ください。
【「第72回 真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」2024年12月21日放送分】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-72
【真田昌幸 犬伏の別れの真実とは!?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第82回)】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-aftertalk-84
■出演
進行:中西悠理(キャスター)
解説:伊東潤(歴史作家)
2024年12月21日パシフィコ横浜にてお城EXPO開城!!
イベントステージにて偉人・敗北からの教訓 in お城EXPOと題し、登壇いたしました!
当日の様子をBS11+見放題会員の皆様にお届け🌸
真田昌幸編も含め、ぜひご覧ください。
【「第72回 真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」2024年12月21日放送分】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-72
【真田昌幸 犬伏の別れの真実とは!?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第82回)】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-aftertalk-84
■出演
進行:中西悠理(キャスター)
解説:伊東潤(歴史作家)
見放題
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第72回「真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」
戦国時代、徳川の大軍を二度も打ち破った名将・真田昌幸の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、信濃の国衆の家に生まれた昌幸は幼い頃、甲斐の武田信玄の薫陶を受けて成長。長篠・設楽原の戦いで二人の兄が戦死した後、家督を継ぎ、武田家の宿老格となるが、武田家が滅亡すると、織田、上杉、北条、徳川と従属先を変えながら生き残りを図る。沼田領を巡り、徳川家康と対立すると、見事、徳川軍を撃退した。
その後、豊臣秀吉に従属するが、秀吉の死後、豊臣大名が二分して争うと、昌幸は次男・信繁と共に西軍に与する。上田城で徳川秀忠率いる大軍と戦い、勢力を削ぐことに成功するが、関ヶ原の戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わり、昌幸は上田城の明け渡しを余儀なくされる。その後、高野山での蟄居生活を強いられ、打倒家康の夢を信繁に託し、静かにこの世を去ることに。昌幸が家康に勝利する方法はなかったのか?
徳川の大軍を打破した拠点・上田城はその後、家康によって徹底的に破壊された。真田氏の居城とはいかなる城だったのか?高野山に配流された昌幸は健康を損ね、次第に衰弱していったが、そんな苦境にありながらも、いつか徳川と豊臣の合戦が起きると予測し、信繁に戦い方を伝授していたという。流罪となって11年、昌幸は65歳で生涯を閉じる。信繁が高野山を脱出し、大坂城を目指すのはその3年後のことだった。
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
戦国時代、徳川の大軍を二度も打ち破った名将・真田昌幸の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、信濃の国衆の家に生まれた昌幸は幼い頃、甲斐の武田信玄の薫陶を受けて成長。長篠・設楽原の戦いで二人の兄が戦死した後、家督を継ぎ、武田家の宿老格となるが、武田家が滅亡すると、織田、上杉、北条、徳川と従属先を変えながら生き残りを図る。沼田領を巡り、徳川家康と対立すると、見事、徳川軍を撃退した。
その後、豊臣秀吉に従属するが、秀吉の死後、豊臣大名が二分して争うと、昌幸は次男・信繁と共に西軍に与する。上田城で徳川秀忠率いる大軍と戦い、勢力を削ぐことに成功するが、関ヶ原の戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わり、昌幸は上田城の明け渡しを余儀なくされる。その後、高野山での蟄居生活を強いられ、打倒家康の夢を信繁に託し、静かにこの世を去ることに。昌幸が家康に勝利する方法はなかったのか?
徳川の大軍を打破した拠点・上田城はその後、家康によって徹底的に破壊された。真田氏の居城とはいかなる城だったのか?高野山に配流された昌幸は健康を損ね、次第に衰弱していったが、そんな苦境にありながらも、いつか徳川と豊臣の合戦が起きると予測し、信繁に戦い方を伝授していたという。流罪となって11年、昌幸は65歳で生涯を閉じる。信繁が高野山を脱出し、大坂城を目指すのはその3年後のことだった。
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
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第71回「吉良上野介・怒りの矛先となった忠臣蔵の敵役」
赤穂浪士の討入によって命を落とした吉良上野介の敗北から現代に通じる教訓を探る。1641年、幕府の儀式や典礼を司る高家旗本・吉良義冬の嫡男として江戸に生まれた上野介は18歳の時、米沢藩主・上杉綱勝の妹と結婚、43歳で高家肝煎に就任する。上野介は三河国と上野国に計4200石の所領を有し、三河の吉良では治水事業や新田開発などを手掛け、領民に慕われた名君であったと伝えられている。
ところが、61歳の時、江戸城松の廊下で勅使饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭に突然、斬り付けられ、傷を負ってしまう。内匠頭は即日切腹となるが、上野介はお咎めなしだったこともあり、内匠頭の家臣らの恨みを買うことに。そして、刃傷事件から1年9カ月後、大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良邸討入を決行し、上野介は首を取られてしまう。上野介はなぜ、自らの命を守ることができなかったのか?
吉良邸討入から約50日後、赤穂浪士46人が切腹に処せられ、亡き主君のもとに旅立った。その日、吉良家にも改易という厳しい処分が下された。幕府が吉良家に断罪を下した背景には、無視することができない世間の声があったという。信濃に配流となった吉良家当主・義周は3年後、21歳の若さで他界、この時、高家としての吉良家は断絶した。家名断絶という悲劇を招いた上野介。しかし、この後、さらに大きな敗北が待っていた!
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
赤穂浪士の討入によって命を落とした吉良上野介の敗北から現代に通じる教訓を探る。1641年、幕府の儀式や典礼を司る高家旗本・吉良義冬の嫡男として江戸に生まれた上野介は18歳の時、米沢藩主・上杉綱勝の妹と結婚、43歳で高家肝煎に就任する。上野介は三河国と上野国に計4200石の所領を有し、三河の吉良では治水事業や新田開発などを手掛け、領民に慕われた名君であったと伝えられている。
ところが、61歳の時、江戸城松の廊下で勅使饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭に突然、斬り付けられ、傷を負ってしまう。内匠頭は即日切腹となるが、上野介はお咎めなしだったこともあり、内匠頭の家臣らの恨みを買うことに。そして、刃傷事件から1年9カ月後、大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良邸討入を決行し、上野介は首を取られてしまう。上野介はなぜ、自らの命を守ることができなかったのか?
吉良邸討入から約50日後、赤穂浪士46人が切腹に処せられ、亡き主君のもとに旅立った。その日、吉良家にも改易という厳しい処分が下された。幕府が吉良家に断罪を下した背景には、無視することができない世間の声があったという。信濃に配流となった吉良家当主・義周は3年後、21歳の若さで他界、この時、高家としての吉良家は断絶した。家名断絶という悲劇を招いた上野介。しかし、この後、さらに大きな敗北が待っていた!
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第70回「天草四郎・神の子として挑んだ島原の乱」
江戸時代、島原の乱の総大将を務めた天草四郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1622年、現在の熊本県天草諸島で生まれたと言われる四郎はかつて小西行長に仕えていたキリシタンの父に育てられ、10代前半で長崎に出て見聞を広めた。一方、故郷の人々は重税やキリスト教の弾圧、飢饉などに苦しみ、生活苦に陥っていた。そんな中、四郎の父が地元の民らと蜂起することを計画、四郎はその総大将として立つことになる。
四郎を救世主、神の子として祀り上げ、蜂起した民は約3万もの人々を一揆に動員し、島原城や富岡城に攻撃を仕掛けた。序盤は戦いを優勢に進めていたが、幕府軍が始動すると、原城を改修し、立て籠もる。しかし、籠城戦が長引くと兵糧が尽き、遂に一揆勢は全滅してしまう。多くの犠牲者を出す反乱を避けることはできなかったのか?そして、四郎はなぜ、神の子として振る舞い、一揆を率いなければならなかったのか?
島原の乱の後、幕府は国内でキリスト教の布教活動をする可能性があるとしてポルトガル船の入国を禁じ、交易の相手国をオランダと清に限定する。いわゆる、鎖国の始まりである。厳しい弾圧を受けながらも、信仰を棄てることができない熱心な信徒たちは潜伏キリシタンとなり、子々孫々、200年以上にわたり、秘密裏に神の教えを守り続けた。さらに、四郎らが起こした一揆はある種、世直しにも一役買っていた!
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
江戸時代、島原の乱の総大将を務めた天草四郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1622年、現在の熊本県天草諸島で生まれたと言われる四郎はかつて小西行長に仕えていたキリシタンの父に育てられ、10代前半で長崎に出て見聞を広めた。一方、故郷の人々は重税やキリスト教の弾圧、飢饉などに苦しみ、生活苦に陥っていた。そんな中、四郎の父が地元の民らと蜂起することを計画、四郎はその総大将として立つことになる。
四郎を救世主、神の子として祀り上げ、蜂起した民は約3万もの人々を一揆に動員し、島原城や富岡城に攻撃を仕掛けた。序盤は戦いを優勢に進めていたが、幕府軍が始動すると、原城を改修し、立て籠もる。しかし、籠城戦が長引くと兵糧が尽き、遂に一揆勢は全滅してしまう。多くの犠牲者を出す反乱を避けることはできなかったのか?そして、四郎はなぜ、神の子として振る舞い、一揆を率いなければならなかったのか?
島原の乱の後、幕府は国内でキリスト教の布教活動をする可能性があるとしてポルトガル船の入国を禁じ、交易の相手国をオランダと清に限定する。いわゆる、鎖国の始まりである。厳しい弾圧を受けながらも、信仰を棄てることができない熱心な信徒たちは潜伏キリシタンとなり、子々孫々、200年以上にわたり、秘密裏に神の教えを守り続けた。さらに、四郎らが起こした一揆はある種、世直しにも一役買っていた!
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進行:中西悠理(キャスター)
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第69回「高山右近・日本を追われたキリシタン大名」
戦乱の世を信仰と共に生きたキリシタン大名・高山右近の敗北から現代に通じる教訓を探る。1552年頃、摂津国に生まれた右近は12歳頃、父がキリスト教に入信したのを機に家族や家臣と共に洗礼を受ける。22歳頃、家督を譲られ、高槻城主になると、自らが整備した城下町に教会を建て、キリスト教の布教に尽力。その後、織田信長に仕え、安土城下にセミナリヨと呼ばれる神学校を造り、キリスト教のさらなる発展を目指した。
信長が横死すると、右近は羽柴秀吉に仕え、天下統一事業を支えるが、1587年、秀吉がバテレン追放令を発すると、右近は信仰を守り抜くことを表明し、改易されてしまう。その後、前田利家に招かれ、加賀国に赴いた右近は前田家の庇護のもと、布教活動に尽力するが、やがて、幕府がキリスト教への警戒感を強め、禁教令を発すると、右近は国外追放を言い渡されてしまう。右近はなぜ、日本を去らねばならなかったのか?
右近は国を後にする際、南北朝時代の武将が詠んだ歌に自らの想いを重ねた。「生きて帰ることはない。死者の仲間入りをする自分の名を書き残しておく」と。後世に名をとどめたかった右近の想いは天に召されて400年後、確かなものとなった。カトリック教会が崇敬する最高位の称号である「聖人」に次ぐ「福者」に列せられたのだ。右近はなぜ、武士としての身分をかなぐり捨て、信仰に殉ずることができたのか?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
戦乱の世を信仰と共に生きたキリシタン大名・高山右近の敗北から現代に通じる教訓を探る。1552年頃、摂津国に生まれた右近は12歳頃、父がキリスト教に入信したのを機に家族や家臣と共に洗礼を受ける。22歳頃、家督を譲られ、高槻城主になると、自らが整備した城下町に教会を建て、キリスト教の布教に尽力。その後、織田信長に仕え、安土城下にセミナリヨと呼ばれる神学校を造り、キリスト教のさらなる発展を目指した。
信長が横死すると、右近は羽柴秀吉に仕え、天下統一事業を支えるが、1587年、秀吉がバテレン追放令を発すると、右近は信仰を守り抜くことを表明し、改易されてしまう。その後、前田利家に招かれ、加賀国に赴いた右近は前田家の庇護のもと、布教活動に尽力するが、やがて、幕府がキリスト教への警戒感を強め、禁教令を発すると、右近は国外追放を言い渡されてしまう。右近はなぜ、日本を去らねばならなかったのか?
右近は国を後にする際、南北朝時代の武将が詠んだ歌に自らの想いを重ねた。「生きて帰ることはない。死者の仲間入りをする自分の名を書き残しておく」と。後世に名をとどめたかった右近の想いは天に召されて400年後、確かなものとなった。カトリック教会が崇敬する最高位の称号である「聖人」に次ぐ「福者」に列せられたのだ。右近はなぜ、武士としての身分をかなぐり捨て、信仰に殉ずることができたのか?
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進行:中西悠理(キャスター)
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第68回「菅原道真・怨霊から神となった平安貴族」
平安時代、怨霊として恐れられた後、神となった菅原道真の敗北から現代に通じる教訓を探る。845年、学者で中級貴族の菅原是善の子として生まれた道真は18歳で中国の歴史や文学を学ぶ文章生となり、26歳で役人の道へ。そして、33歳の若さで文章生を指導する文章博士となる。42歳の時には讃岐守として四国に渡り、地方の現状を目の当たりにしに、政治と行政改革の必要性を実感する。
4年の任期を終え、都に戻った道真は時の宇多天皇に重用され、側近中の側近として、遣唐使派遣の見直しなど、様々な進言を行う。宇多天皇の息子・醍醐天皇の代になっても、道真は政治の中枢で活躍し、55歳の時には国家の最高機関である太政官を統率する右大臣にまで上り詰める。ところが、2年後、道真は突如、解任され、九州の大宰府に流されてしまう。道真はなぜ、都を追われてしまったのか?
道真の死後、都は数々の悲劇に見舞われる。道真と共に政治を牽引した左大臣・藤原時平が急死、洪水や長雨、干ばつなどの災害が頻発、さらに醍醐天皇の息子と孫が他界。醍醐天皇は道真が怨霊となり、祟っていると恐れ、道真を右大臣の地位に戻し、正二位の位階を追贈した。しかし、その後、宮中の清涼殿に雷が落ち、公卿らが命を落とし、程なくして醍醐天皇が崩御してしまう。そして、遂に道真は神として祀られることになる。
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
平安時代、怨霊として恐れられた後、神となった菅原道真の敗北から現代に通じる教訓を探る。845年、学者で中級貴族の菅原是善の子として生まれた道真は18歳で中国の歴史や文学を学ぶ文章生となり、26歳で役人の道へ。そして、33歳の若さで文章生を指導する文章博士となる。42歳の時には讃岐守として四国に渡り、地方の現状を目の当たりにしに、政治と行政改革の必要性を実感する。
4年の任期を終え、都に戻った道真は時の宇多天皇に重用され、側近中の側近として、遣唐使派遣の見直しなど、様々な進言を行う。宇多天皇の息子・醍醐天皇の代になっても、道真は政治の中枢で活躍し、55歳の時には国家の最高機関である太政官を統率する右大臣にまで上り詰める。ところが、2年後、道真は突如、解任され、九州の大宰府に流されてしまう。道真はなぜ、都を追われてしまったのか?
道真の死後、都は数々の悲劇に見舞われる。道真と共に政治を牽引した左大臣・藤原時平が急死、洪水や長雨、干ばつなどの災害が頻発、さらに醍醐天皇の息子と孫が他界。醍醐天皇は道真が怨霊となり、祟っていると恐れ、道真を右大臣の地位に戻し、正二位の位階を追贈した。しかし、その後、宮中の清涼殿に雷が落ち、公卿らが命を落とし、程なくして醍醐天皇が崩御してしまう。そして、遂に道真は神として祀られることになる。
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
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第67回「紫式部・『源氏物語』誕生と宮中での苦悩」
『源氏物語』の著者として名高い紫式部の敗北から明日を生きるための教訓を探る。973年、下級貴族で詩人でもあった藤原為時の次女として生まれたとされる紫式部は20代半ばで親子ほど年の離れた貴族・藤原宣孝と結婚。翌年、娘が誕生し、ささやかな幸せを手に入れる。ところが、その後、宣孝が急死、紫式部はその悲しみを紛らわせるために筆を執る。日本の古典文学の最高峰と呼ばれる『源氏物語』の誕生である。
『源氏物語』の評判は時の権力者・藤原道長にも届き、紫式部は道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子の女房に抜擢され、宮仕えを始める。しかし、プライドが高く、人付き合い苦手な紫式部は周囲の環境に馴染めず、わずか数日で宮廷から逃げ出し、実家に引きこもってしまう。数ヵ月間に及んだ引きこもりは、彼女の人生に何をもたらしたのか?そして、男女の愛憎と権力闘争を描いた長大な物語は、いかにして紡がれていったのか?
紫式部の死から200年余りが経った頃に記された書物には、紫式部が偽り事を綴り、地獄に落とされたと記されている。なぜ、このような伝承が生まれたのか?また、『紫式部日記』には彰子の出産場面など公の記録が残されている一方、清少納言や同僚への批判など様々な私情も記されている。長らく、自分のためだけに書かれたものと考えられていたが、近年、新たな説が登場している。紫式部は誰のために日記を綴って残したのか?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
『源氏物語』の著者として名高い紫式部の敗北から明日を生きるための教訓を探る。973年、下級貴族で詩人でもあった藤原為時の次女として生まれたとされる紫式部は20代半ばで親子ほど年の離れた貴族・藤原宣孝と結婚。翌年、娘が誕生し、ささやかな幸せを手に入れる。ところが、その後、宣孝が急死、紫式部はその悲しみを紛らわせるために筆を執る。日本の古典文学の最高峰と呼ばれる『源氏物語』の誕生である。
『源氏物語』の評判は時の権力者・藤原道長にも届き、紫式部は道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子の女房に抜擢され、宮仕えを始める。しかし、プライドが高く、人付き合い苦手な紫式部は周囲の環境に馴染めず、わずか数日で宮廷から逃げ出し、実家に引きこもってしまう。数ヵ月間に及んだ引きこもりは、彼女の人生に何をもたらしたのか?そして、男女の愛憎と権力闘争を描いた長大な物語は、いかにして紡がれていったのか?
紫式部の死から200年余りが経った頃に記された書物には、紫式部が偽り事を綴り、地獄に落とされたと記されている。なぜ、このような伝承が生まれたのか?また、『紫式部日記』には彰子の出産場面など公の記録が残されている一方、清少納言や同僚への批判など様々な私情も記されている。長らく、自分のためだけに書かれたものと考えられていたが、近年、新たな説が登場している。紫式部は誰のために日記を綴って残したのか?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
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