偉人・敗北からの教訓
第4回「石田三成・関ヶ原大敗の真相」
レンタル期間:7日間
あらすじ
豊臣政権を支えた五奉行の一人、石田三成。天下人・豊臣秀吉亡き後、三成は西軍を率い、徳川家康が大将を務める東軍と天下分け目の決戦に挑むが、大敗を喫する。
豊臣家の繁栄を誰よりも強く願っていた三成はなぜ家康の台頭を許し、儚く散ってしまったのか?そこには、豊臣政権における二大派閥、文治派と武断派の対立があった!
文治派を代表するエリート武将・三成は打倒家康を決意し、画策を練るが、関ヶ原で惨敗。三成最大の敗因とは?
豊臣家の繁栄を誰よりも強く願っていた三成はなぜ家康の台頭を許し、儚く散ってしまったのか?そこには、豊臣政権における二大派閥、文治派と武断派の対立があった!
文治派を代表するエリート武将・三成は打倒家康を決意し、画策を練るが、関ヶ原で惨敗。三成最大の敗因とは?
エピソード

第79回「安国寺恵瓊・関ヶ原の責任を負わされた外交僧」
中国地方の大大名・毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の敗北から現代に通じる教訓を探る。1537年頃、安芸武田氏の一族として、安芸国に生まれたと考えられる恵瓊は幼い頃、一族が毛利元就によって滅ぼされたため、出家し、10代半ばで京都にある東福寺の高僧・竺雲恵心に師事。恵心と親交のあった毛利家に仕え、備中高松城の戦いで羽柴秀吉と講和交渉を行うなど、外交僧として名を上げる。
主君・毛利輝元が秀吉に臣従した後は、秀吉の天下統一に貢献。秀吉が亡くなり、豊臣政権が二分すると、恵瓊は石田三成らと共に西軍を結成し、徳川家康率いると東軍と対峙するが、関ヶ原の戦いの前日に西軍総大将の輝元が家康と和議を結ぶ。これにより、恵瓊をはじめとする毛利勢は関ヶ原の本戦で兵を動かすことができず、西軍の敗戦を招いてしまった。恵瓊はなぜ、主君に裏切られる形となったのか?
関ヶ原で武人として戦うことすら叶わなかった恵瓊は切腹を覚悟したものの、周囲の説得により生きる決意をし、敵の目をかいくぐり、京都の寺で身を潜める。しかし、敗戦から7日後、東軍の武将に捕縛されると、三成らと共に西軍決起の首謀者と見なされ、斬首刑に処された。毛利家は戦後、所領の大半を家康に没収され、長門と周防のみを安堵されることに。生涯を毛利家に捧げた恵瓊が後世に残したものとは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
中国地方の大大名・毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の敗北から現代に通じる教訓を探る。1537年頃、安芸武田氏の一族として、安芸国に生まれたと考えられる恵瓊は幼い頃、一族が毛利元就によって滅ぼされたため、出家し、10代半ばで京都にある東福寺の高僧・竺雲恵心に師事。恵心と親交のあった毛利家に仕え、備中高松城の戦いで羽柴秀吉と講和交渉を行うなど、外交僧として名を上げる。
主君・毛利輝元が秀吉に臣従した後は、秀吉の天下統一に貢献。秀吉が亡くなり、豊臣政権が二分すると、恵瓊は石田三成らと共に西軍を結成し、徳川家康率いると東軍と対峙するが、関ヶ原の戦いの前日に西軍総大将の輝元が家康と和議を結ぶ。これにより、恵瓊をはじめとする毛利勢は関ヶ原の本戦で兵を動かすことができず、西軍の敗戦を招いてしまった。恵瓊はなぜ、主君に裏切られる形となったのか?
関ヶ原で武人として戦うことすら叶わなかった恵瓊は切腹を覚悟したものの、周囲の説得により生きる決意をし、敵の目をかいくぐり、京都の寺で身を潜める。しかし、敗戦から7日後、東軍の武将に捕縛されると、三成らと共に西軍決起の首謀者と見なされ、斬首刑に処された。毛利家は戦後、所領の大半を家康に没収され、長門と周防のみを安堵されることに。生涯を毛利家に捧げた恵瓊が後世に残したものとは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
無料

第78回「太原雪斎・今川家の繁栄を維持できなかった軍師」
「黒衣の宰相」と呼ばれた今川家の軍師・太原雪斎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1496年、駿河国に生まれた雪斎は京都の建仁寺などで修行を積み、頭角を現すと、その評判を聞きつけた駿河の大名・今川氏親から義元の教育係に抜擢される。1536年、今川家当主・氏輝が亡くなると、義元は後継者の座を巡り、兄・玄広恵探と敵対。この時、雪斎は恵探を自刃に追いやり、義元を今川家の当主に据えることに成功する。
僧でありながら今川家の政治・外交・軍事を司ることになった雪斎は1549年に西三河を制圧。さらに、雪斎が青写真を描いたと言われる三国同盟により、今川氏は武田氏、北条氏と共に東日本を代表する勢力へと成長を遂げる。しかし、1555年に雪斎が亡くなると、5年後、義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏は10年と持たずに滅亡してしまう。雪斎はなぜ、今川家の繁栄を維持することができなかったのか?
雪斎と義元の死後、当主・氏真は今川家を死守しようと奮闘するが、武田信玄が三国同盟を破棄し、徳川家康と共に今川領を攻撃。領地の大半を失った氏真は降伏を余儀なくされ、この時、大名としての今川家の歴史は終わりを告げる。その後、戦乱の世を勝ち抜き、天下泰平の世を実現したのは、義元と同じく雪斎から薫陶を受けた家康であった。義元と家康の違いは一体、どこにあったのか?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
「黒衣の宰相」と呼ばれた今川家の軍師・太原雪斎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1496年、駿河国に生まれた雪斎は京都の建仁寺などで修行を積み、頭角を現すと、その評判を聞きつけた駿河の大名・今川氏親から義元の教育係に抜擢される。1536年、今川家当主・氏輝が亡くなると、義元は後継者の座を巡り、兄・玄広恵探と敵対。この時、雪斎は恵探を自刃に追いやり、義元を今川家の当主に据えることに成功する。
僧でありながら今川家の政治・外交・軍事を司ることになった雪斎は1549年に西三河を制圧。さらに、雪斎が青写真を描いたと言われる三国同盟により、今川氏は武田氏、北条氏と共に東日本を代表する勢力へと成長を遂げる。しかし、1555年に雪斎が亡くなると、5年後、義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏は10年と持たずに滅亡してしまう。雪斎はなぜ、今川家の繁栄を維持することができなかったのか?
雪斎と義元の死後、当主・氏真は今川家を死守しようと奮闘するが、武田信玄が三国同盟を破棄し、徳川家康と共に今川領を攻撃。領地の大半を失った氏真は降伏を余儀なくされ、この時、大名としての今川家の歴史は終わりを告げる。その後、戦乱の世を勝ち抜き、天下泰平の世を実現したのは、義元と同じく雪斎から薫陶を受けた家康であった。義元と家康の違いは一体、どこにあったのか?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
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第77回「喜多川歌麿・江戸幕府の怒りを買った浮世絵師」
江戸時代、美人画で一世を風靡した浮世絵師・喜多川歌麿の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1753年頃、江戸に生まれたと言われる歌麿は狩野派の絵師・鳥山石燕に入門し、絵師として活動を始めるが、なかなか芽が出ず、苦悩していた。そんな中、版元として頭角を現した蔦屋重三郎に出会い、狂歌絵本を手掛けたことで道が開ける。そして、美人大首絵という新たな分野を開拓し、美人画の第一人者に躍り出た。
しかし、重三郎が東洲斎写楽という新たな才能を見出すと、二人の間に溝が生まれる。歌麿は重三郎亡き後、幕府の規制に抗い、孤軍奮闘を続けるが、やがて、自らの代名詞とも言える美人大首絵の発行が禁じられてしまう。さらに「太閤記」を題材にした錦絵が幕府の禁制に触れ、歌麿は厳しい取り調べの末、手鎖50日の罰を受けることに。歌麿はなぜ、幕府の厳しい取り締まりに抵抗し、最後まで戦い続けたのか?
厳罰を受けた二年後、歌麿はひっそりと、その生涯に幕を降ろす。しかし、その創作意欲は最晩年まで続き、自身の集大成とも言える大作を残していたことが近年の研究で明らかになった。三部作「雪月花」のうちの一つ「深川の雪」は歌麿が晩年に度々訪れた栃木で描かれたものだと考えられている。歌麿がその絵に込めた思いとは?そして、歌麿が自らの画業を通じ、後世に残したメッセージとは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
江戸時代、美人画で一世を風靡した浮世絵師・喜多川歌麿の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1753年頃、江戸に生まれたと言われる歌麿は狩野派の絵師・鳥山石燕に入門し、絵師として活動を始めるが、なかなか芽が出ず、苦悩していた。そんな中、版元として頭角を現した蔦屋重三郎に出会い、狂歌絵本を手掛けたことで道が開ける。そして、美人大首絵という新たな分野を開拓し、美人画の第一人者に躍り出た。
しかし、重三郎が東洲斎写楽という新たな才能を見出すと、二人の間に溝が生まれる。歌麿は重三郎亡き後、幕府の規制に抗い、孤軍奮闘を続けるが、やがて、自らの代名詞とも言える美人大首絵の発行が禁じられてしまう。さらに「太閤記」を題材にした錦絵が幕府の禁制に触れ、歌麿は厳しい取り調べの末、手鎖50日の罰を受けることに。歌麿はなぜ、幕府の厳しい取り締まりに抵抗し、最後まで戦い続けたのか?
厳罰を受けた二年後、歌麿はひっそりと、その生涯に幕を降ろす。しかし、その創作意欲は最晩年まで続き、自身の集大成とも言える大作を残していたことが近年の研究で明らかになった。三部作「雪月花」のうちの一つ「深川の雪」は歌麿が晩年に度々訪れた栃木で描かれたものだと考えられている。歌麿がその絵に込めた思いとは?そして、歌麿が自らの画業を通じ、後世に残したメッセージとは?
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解説:伊東潤(歴史作家)
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第76回「蔦屋重三郎・寛政の改革に抗ったメディア王」
歌麿、写楽といった浮世絵師を育てたメディア王・蔦屋重三郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1750年、江戸・吉原で生まれた重三郎は23歳で小さな貸本屋を開業すると、その後、吉原のガイドブックである「吉原細見」の出版権を獲得。これが大ヒットし、版元として独立した重三郎は、庶民の人気を集めていた狂歌本や黄表紙、洒落本などの出版物でもヒットを連発し、創業わずか10年で出版界のリーダーとなる。
ところが、1787年、老中・松平定信が質素倹約・文武奨励を謳う、寛政の改革に着手すると、一気に風向きが変わる。幕府は政治や社会を風刺する版元や作家に睨みをきかせ、問題のある出版を禁じたのだ。重三郎は逆風の中で人気作家・山東京伝を起用し、遊郭を舞台にした洒落本の出版に踏み切るが、幕府の摘発を受け、多くの財産を没収されてしまった。重三郎はなぜ、危険を承知で問題作の出版に踏み切ったのか?
重い処罰を受けた重三郎はその後、起死回生を図り、次々と斬新な作品を世に送り出す。喜多川歌麿の美人大首絵、東洲斎写楽の役者絵は瞬く間に人気シリーズに。さらに新人発掘にも力を注ぎ、曲亭馬琴や十返舎一九、葛飾北斎らをトップクリエイターに押し上げた。1797年、48歳でこの世を去った重三郎は吉原で永久の眠りについている。幾多の名作を生んだ店のある日本橋ではなく、吉原を永眠の地に選んだ理由とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
歌麿、写楽といった浮世絵師を育てたメディア王・蔦屋重三郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1750年、江戸・吉原で生まれた重三郎は23歳で小さな貸本屋を開業すると、その後、吉原のガイドブックである「吉原細見」の出版権を獲得。これが大ヒットし、版元として独立した重三郎は、庶民の人気を集めていた狂歌本や黄表紙、洒落本などの出版物でもヒットを連発し、創業わずか10年で出版界のリーダーとなる。
ところが、1787年、老中・松平定信が質素倹約・文武奨励を謳う、寛政の改革に着手すると、一気に風向きが変わる。幕府は政治や社会を風刺する版元や作家に睨みをきかせ、問題のある出版を禁じたのだ。重三郎は逆風の中で人気作家・山東京伝を起用し、遊郭を舞台にした洒落本の出版に踏み切るが、幕府の摘発を受け、多くの財産を没収されてしまった。重三郎はなぜ、危険を承知で問題作の出版に踏み切ったのか?
重い処罰を受けた重三郎はその後、起死回生を図り、次々と斬新な作品を世に送り出す。喜多川歌麿の美人大首絵、東洲斎写楽の役者絵は瞬く間に人気シリーズに。さらに新人発掘にも力を注ぎ、曲亭馬琴や十返舎一九、葛飾北斎らをトップクリエイターに押し上げた。1797年、48歳でこの世を去った重三郎は吉原で永久の眠りについている。幾多の名作を生んだ店のある日本橋ではなく、吉原を永眠の地に選んだ理由とは?
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第75回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原②島津義弘」
兄・島津義久と共に島津家の発展に尽くした島津義弘の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、島津貴久の次男として薩摩国に生まれた義弘は20歳で初陣を飾り、兄・義久が領国経営に専念する中、合戦の大将として勢力拡大を目指す。日向の伊東氏や豊後の大友氏を駆逐し、九州の大半を制圧するが、豊臣秀吉の大軍に屈する。この頃から、兄弟の間に溝が生じる。豊臣政権が義弘を島津家の当主として扱ったからだ。
義弘は文禄の役では出陣が遅れ、屈辱を味わうが、慶長の役では獅子奮迅の活躍を見せる。秀吉没後、豊臣大名が二分して覇権を争うと、義弘は当初、東軍に加わる予定だったが、急遽、西軍として参加。しかし、義弘が率いた兵はわずか1500で、思い描いたような活躍ができない。やがて、西軍の敗色が濃厚となると、諸将が散り散りとなり、義弘も撤退せざるを得なかった。義弘はなぜ、わずかな兵で戦わざるを得なかったのか?
関ヶ原に孤立した義弘は命がけの敵中突破を敢行する。東軍・井伊直政の追撃を受けるが、島津隊が命を顧みず、応戦、直政に銃弾を放ち、重傷を負わせた。危機を脱した義弘は大坂城で人質となっていた妻らを奪還し、やっとのことで帰還した。徳川家との和平交渉の末、島津家は本領安堵と義弘の助命を勝ち取る。その後、義弘は85歳の長寿を全うした。今も多くの人々に慕われる、島津義弘の魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
兄・島津義久と共に島津家の発展に尽くした島津義弘の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、島津貴久の次男として薩摩国に生まれた義弘は20歳で初陣を飾り、兄・義久が領国経営に専念する中、合戦の大将として勢力拡大を目指す。日向の伊東氏や豊後の大友氏を駆逐し、九州の大半を制圧するが、豊臣秀吉の大軍に屈する。この頃から、兄弟の間に溝が生じる。豊臣政権が義弘を島津家の当主として扱ったからだ。
義弘は文禄の役では出陣が遅れ、屈辱を味わうが、慶長の役では獅子奮迅の活躍を見せる。秀吉没後、豊臣大名が二分して覇権を争うと、義弘は当初、東軍に加わる予定だったが、急遽、西軍として参加。しかし、義弘が率いた兵はわずか1500で、思い描いたような活躍ができない。やがて、西軍の敗色が濃厚となると、諸将が散り散りとなり、義弘も撤退せざるを得なかった。義弘はなぜ、わずかな兵で戦わざるを得なかったのか?
関ヶ原に孤立した義弘は命がけの敵中突破を敢行する。東軍・井伊直政の追撃を受けるが、島津隊が命を顧みず、応戦、直政に銃弾を放ち、重傷を負わせた。危機を脱した義弘は大坂城で人質となっていた妻らを奪還し、やっとのことで帰還した。徳川家との和平交渉の末、島津家は本領安堵と義弘の助命を勝ち取る。その後、義弘は85歳の長寿を全うした。今も多くの人々に慕われる、島津義弘の魅力とは?
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解説:伊東潤(歴史作家)
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第74回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原①井伊直政」
徳川四天王の一人、井伊直政の敗北から現代に通じる教訓を探る。1561年、井伊直親の嫡男として遠江国に生まれた直政は2歳の時に父・直親が主君・今川氏真に殺されたため、各地の寺で幼少期を過ごし、15歳で徳川家康の小姓となる。織田信長亡き後、旧武田領をめぐる戦いが起きると、直政は北条氏との講和交渉を担当。主君・家康が豊臣秀吉に臣従した後、小田原攻めで手柄を上げ、上野国箕輪に12万石を拝領した。
秀吉が亡くなり、家康が天下取りへと動き出すと、直政は黒田長政ら有力大名を味方に付けるべく、水面下で交渉にあたる。そして迎えた、天下分け目の関ヶ原。直政による多数派工作が実を結び、家康率いる東軍は見事、勝利を飾る。ところが、勝ち戦が決定した直後、直政は敵中突破を敢行した西軍・島津義弘隊を追撃し、被弾してしまう。直政はなぜ、自軍を勝利に導きながら深追いし、傷を負ってしまったのか?
関ヶ原の戦いの勝利に貢献した直政は戦後、傷も癒えぬまま、敗れた毛利家や島津家との講和交渉に奔走する。そして、石田三成の旧領である近江国佐和山に加増移封された直政はその後、琵琶湖のほとりに新たな居城の建設を計画した。今日の国宝、彦根城である。しかし、直政はその完成を見ることなく、波瀾の生涯に幕を降ろした。名門・井伊家の再興を見事に果たした直政の功績、そして、魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
徳川四天王の一人、井伊直政の敗北から現代に通じる教訓を探る。1561年、井伊直親の嫡男として遠江国に生まれた直政は2歳の時に父・直親が主君・今川氏真に殺されたため、各地の寺で幼少期を過ごし、15歳で徳川家康の小姓となる。織田信長亡き後、旧武田領をめぐる戦いが起きると、直政は北条氏との講和交渉を担当。主君・家康が豊臣秀吉に臣従した後、小田原攻めで手柄を上げ、上野国箕輪に12万石を拝領した。
秀吉が亡くなり、家康が天下取りへと動き出すと、直政は黒田長政ら有力大名を味方に付けるべく、水面下で交渉にあたる。そして迎えた、天下分け目の関ヶ原。直政による多数派工作が実を結び、家康率いる東軍は見事、勝利を飾る。ところが、勝ち戦が決定した直後、直政は敵中突破を敢行した西軍・島津義弘隊を追撃し、被弾してしまう。直政はなぜ、自軍を勝利に導きながら深追いし、傷を負ってしまったのか?
関ヶ原の戦いの勝利に貢献した直政は戦後、傷も癒えぬまま、敗れた毛利家や島津家との講和交渉に奔走する。そして、石田三成の旧領である近江国佐和山に加増移封された直政はその後、琵琶湖のほとりに新たな居城の建設を計画した。今日の国宝、彦根城である。しかし、直政はその完成を見ることなく、波瀾の生涯に幕を降ろした。名門・井伊家の再興を見事に果たした直政の功績、そして、魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
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第73回「武田信虎 息子・信玄に追放された名将」
戦国時代、甲斐統一を成し遂げた戦上手・武田信虎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1498年、甲斐に生まれた信虎は10代の若さで家督を継ぐと、国内の反対勢力を味方につけ、一族の抗争に終止符を打つ。そして、甲府を新たな拠点とし、軍事力を強化し、群雄割拠の甲斐統一に成功する。しかし、度重なる戦いで国内は疲弊、さらに不作が続き、飢饉が起こると、領民たちの不満が高まっていった。
信虎は苦境を脱すべく、今川氏や諏訪氏など敵対勢力と同盟を結び、信濃に進出、新たな領地を獲得し、本格的に勢力拡大を目指す。ところが、1541年、予期せぬ事態に見舞われる。信虎が同盟相手の今川氏を訪ね、駿河を訪れた際、息子・信玄と家臣らによって、突如、国境を閉鎖され、帰国することが不可能となってしまったのだ。名門・武田家を復活させた信虎はなぜ、国を追われてしまったのか?
その後、京都に住まいを移した信虎は将軍家から厚遇を受ける。1573年、十五代将軍・足利義昭と織田信長の対立が激化すると、義昭に従い、行動するが、室町幕府が滅亡すると、信虎の身も危うくなる。この年、息子・信玄が病死、翌年、信虎は高遠城で初めて孫の勝頼と対面する。しかし、勝頼に警戒され、甲府への帰還は許されなかった。信虎は最晩年をいかにして過ごしたのか?そして、今日の評価とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
戦国時代、甲斐統一を成し遂げた戦上手・武田信虎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1498年、甲斐に生まれた信虎は10代の若さで家督を継ぐと、国内の反対勢力を味方につけ、一族の抗争に終止符を打つ。そして、甲府を新たな拠点とし、軍事力を強化し、群雄割拠の甲斐統一に成功する。しかし、度重なる戦いで国内は疲弊、さらに不作が続き、飢饉が起こると、領民たちの不満が高まっていった。
信虎は苦境を脱すべく、今川氏や諏訪氏など敵対勢力と同盟を結び、信濃に進出、新たな領地を獲得し、本格的に勢力拡大を目指す。ところが、1541年、予期せぬ事態に見舞われる。信虎が同盟相手の今川氏を訪ね、駿河を訪れた際、息子・信玄と家臣らによって、突如、国境を閉鎖され、帰国することが不可能となってしまったのだ。名門・武田家を復活させた信虎はなぜ、国を追われてしまったのか?
その後、京都に住まいを移した信虎は将軍家から厚遇を受ける。1573年、十五代将軍・足利義昭と織田信長の対立が激化すると、義昭に従い、行動するが、室町幕府が滅亡すると、信虎の身も危うくなる。この年、息子・信玄が病死、翌年、信虎は高遠城で初めて孫の勝頼と対面する。しかし、勝頼に警戒され、甲府への帰還は許されなかった。信虎は最晩年をいかにして過ごしたのか?そして、今日の評価とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
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真田昌幸と上田城を徹底深掘り!【偉人・敗北からの教訓 in お城EXPO】
2024年12月21日パシフィコ横浜にてお城EXPO開城!!
イベントステージにて偉人・敗北からの教訓 in お城EXPOと題し、登壇いたしました!
当日の様子を皆様にお届け🌸
真田昌幸編も含め、ぜひご覧ください。
【「第72回 真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」2024年12月21日放送分】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-72
【真田昌幸 犬伏の別れの真実とは!?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第82回)】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-aftertalk-84
■出演
進行:中西悠理(キャスター)
解説:伊東潤(歴史作家)
2024年12月21日パシフィコ横浜にてお城EXPO開城!!
イベントステージにて偉人・敗北からの教訓 in お城EXPOと題し、登壇いたしました!
当日の様子を皆様にお届け🌸
真田昌幸編も含め、ぜひご覧ください。
【「第72回 真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」2024年12月21日放送分】
https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-72
【真田昌幸 犬伏の別れの真実とは!?(【YouTube限定】BS11偉人・敗北からの教訓 こぼれ噺 第82回)】
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■出演
進行:中西悠理(キャスター)
解説:伊東潤(歴史作家)
無料

第72回「真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」
戦国時代、徳川の大軍を二度も打ち破った名将・真田昌幸の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、信濃の国衆の家に生まれた昌幸は幼い頃、甲斐の武田信玄の薫陶を受けて成長。長篠・設楽原の戦いで二人の兄が戦死した後、家督を継ぎ、武田家の宿老格となるが、武田家が滅亡すると、織田、上杉、北条、徳川と従属先を変えながら生き残りを図る。沼田領を巡り、徳川家康と対立すると、見事、徳川軍を撃退した。
その後、豊臣秀吉に従属するが、秀吉の死後、豊臣大名が二分して争うと、昌幸は次男・信繁と共に西軍に与する。上田城で徳川秀忠率いる大軍と戦い、勢力を削ぐことに成功するが、関ヶ原の戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わり、昌幸は上田城の明け渡しを余儀なくされる。その後、高野山での蟄居生活を強いられ、打倒家康の夢を信繁に託し、静かにこの世を去ることに。昌幸が家康に勝利する方法はなかったのか?
徳川の大軍を打破した拠点・上田城はその後、家康によって徹底的に破壊された。真田氏の居城とはいかなる城だったのか?高野山に配流された昌幸は健康を損ね、次第に衰弱していったが、そんな苦境にありながらも、いつか徳川と豊臣の合戦が起きると予測し、信繁に戦い方を伝授していたという。流罪となって11年、昌幸は65歳で生涯を閉じる。信繁が高野山を脱出し、大坂城を目指すのはその3年後のことだった。
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
戦国時代、徳川の大軍を二度も打ち破った名将・真田昌幸の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、信濃の国衆の家に生まれた昌幸は幼い頃、甲斐の武田信玄の薫陶を受けて成長。長篠・設楽原の戦いで二人の兄が戦死した後、家督を継ぎ、武田家の宿老格となるが、武田家が滅亡すると、織田、上杉、北条、徳川と従属先を変えながら生き残りを図る。沼田領を巡り、徳川家康と対立すると、見事、徳川軍を撃退した。
その後、豊臣秀吉に従属するが、秀吉の死後、豊臣大名が二分して争うと、昌幸は次男・信繁と共に西軍に与する。上田城で徳川秀忠率いる大軍と戦い、勢力を削ぐことに成功するが、関ヶ原の戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わり、昌幸は上田城の明け渡しを余儀なくされる。その後、高野山での蟄居生活を強いられ、打倒家康の夢を信繁に託し、静かにこの世を去ることに。昌幸が家康に勝利する方法はなかったのか?
徳川の大軍を打破した拠点・上田城はその後、家康によって徹底的に破壊された。真田氏の居城とはいかなる城だったのか?高野山に配流された昌幸は健康を損ね、次第に衰弱していったが、そんな苦境にありながらも、いつか徳川と豊臣の合戦が起きると予測し、信繁に戦い方を伝授していたという。流罪となって11年、昌幸は65歳で生涯を閉じる。信繁が高野山を脱出し、大坂城を目指すのはその3年後のことだった。
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
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第71回「吉良上野介・怒りの矛先となった忠臣蔵の敵役」
赤穂浪士の討入によって命を落とした吉良上野介の敗北から現代に通じる教訓を探る。1641年、幕府の儀式や典礼を司る高家旗本・吉良義冬の嫡男として江戸に生まれた上野介は18歳の時、米沢藩主・上杉綱勝の妹と結婚、43歳で高家肝煎に就任する。上野介は三河国と上野国に計4200石の所領を有し、三河の吉良では治水事業や新田開発などを手掛け、領民に慕われた名君であったと伝えられている。
ところが、61歳の時、江戸城松の廊下で勅使饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭に突然、斬り付けられ、傷を負ってしまう。内匠頭は即日切腹となるが、上野介はお咎めなしだったこともあり、内匠頭の家臣らの恨みを買うことに。そして、刃傷事件から1年9カ月後、大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良邸討入を決行し、上野介は首を取られてしまう。上野介はなぜ、自らの命を守ることができなかったのか?
吉良邸討入から約50日後、赤穂浪士46人が切腹に処せられ、亡き主君のもとに旅立った。その日、吉良家にも改易という厳しい処分が下された。幕府が吉良家に断罪を下した背景には、無視することができない世間の声があったという。信濃に配流となった吉良家当主・義周は3年後、21歳の若さで他界、この時、高家としての吉良家は断絶した。家名断絶という悲劇を招いた上野介。しかし、この後、さらに大きな敗北が待っていた!
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
赤穂浪士の討入によって命を落とした吉良上野介の敗北から現代に通じる教訓を探る。1641年、幕府の儀式や典礼を司る高家旗本・吉良義冬の嫡男として江戸に生まれた上野介は18歳の時、米沢藩主・上杉綱勝の妹と結婚、43歳で高家肝煎に就任する。上野介は三河国と上野国に計4200石の所領を有し、三河の吉良では治水事業や新田開発などを手掛け、領民に慕われた名君であったと伝えられている。
ところが、61歳の時、江戸城松の廊下で勅使饗応役の赤穂藩主・浅野内匠頭に突然、斬り付けられ、傷を負ってしまう。内匠頭は即日切腹となるが、上野介はお咎めなしだったこともあり、内匠頭の家臣らの恨みを買うことに。そして、刃傷事件から1年9カ月後、大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良邸討入を決行し、上野介は首を取られてしまう。上野介はなぜ、自らの命を守ることができなかったのか?
吉良邸討入から約50日後、赤穂浪士46人が切腹に処せられ、亡き主君のもとに旅立った。その日、吉良家にも改易という厳しい処分が下された。幕府が吉良家に断罪を下した背景には、無視することができない世間の声があったという。信濃に配流となった吉良家当主・義周は3年後、21歳の若さで他界、この時、高家としての吉良家は断絶した。家名断絶という悲劇を招いた上野介。しかし、この後、さらに大きな敗北が待っていた!
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