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偉人・敗北からの教訓
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第77回「喜多川歌麿・江戸幕府の怒りを買った浮世絵師」

偉人・敗北からの教訓

第77回「喜多川歌麿・江戸幕府の怒りを買った浮世絵師」

初回7日間無料(月額税込550円)で見放題プランに入る

レンタル期間:7日間

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江戸時代、美人画で一世を風靡した浮世絵師・喜多川歌麿の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1753年頃、江戸に生まれたと言われる歌麿は狩野派の絵師・鳥山石燕に入門し、絵師として活動を始めるが、なかなか芽が出ず、苦悩していた。そんな中、版元として頭角を現した蔦屋重三郎に出会い、狂歌絵本を手掛けたことで道が開ける。そして、美人大首絵という新たな分野を開拓し、美人画の第一人者に躍り出た。

しかし、重三郎が東洲斎写楽という新たな才能を見出すと、二人の間に溝が生まれる。歌麿は重三郎亡き後、幕府の規制に抗い、孤軍奮闘を続けるが、やがて、自らの代名詞とも言える美人大首絵の発行が禁じられてしまう。さらに「太閤記」を題材にした錦絵が幕府の禁制に触れ、歌麿は厳しい取り調べの末、手鎖50日の罰を受けることに。歌麿はなぜ、幕府の厳しい取り締まりに抵抗し、最後まで戦い続けたのか?

厳罰を受けた二年後、歌麿はひっそりと、その生涯に幕を降ろす。しかし、その創作意欲は最晩年まで続き、自身の集大成とも言える大作を残していたことが近年の研究で明らかになった。三部作「雪月花」のうちの一つ「深川の雪」は歌麿が晩年に度々訪れた栃木で描かれたものだと考えられている。歌麿がその絵に込めた思いとは?そして、歌麿が自らの画業を通じ、後世に残したメッセージとは?

【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)

エピソード

第120回「榎本武揚・旧幕府軍リーダーの最後の戦い」

第120回「榎本武揚・旧幕府軍リーダーの最後の戦い」

旧幕府軍最後のリーダーとして戊辰戦争に挑んだ榎本武揚の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1836年、幕臣・榎本武規の次男として江戸に生まれた武揚はジョン万次郎の私塾で英語を学び、世界情勢をはじめ、幅広い分野に関心を寄せる。27歳の時、幕府初の留学生としてオランダに渡ると、海軍術を学んで、1867年に帰国した。ところが、待っていたのは、十五代将軍・徳川慶喜による大政奉還であった。 旧幕府軍と新政府軍の戦いが勃発すると、武揚は軍艦・開陽丸の艦長となり、幕府艦隊を指揮するが、慶喜が大坂から江戸に逃亡したことを知り、愕然とする。慶喜が降伏した後、武揚は旧幕臣らと蝦夷へ向かい、五稜郭を拠点とし、新政府軍を迎え撃つ。武揚は軍艦を率いて果敢に応戦するも、圧倒的な兵力を前に屈服し、戊辰戦争は終結する。最後まで新政府軍と戦い続けた武揚はなぜ、降伏という苦渋の決断を下したのか? 武揚はその後、東京に移送され、収監されるが、1872年に出獄し、明治政府に出仕。蝦夷開拓使となり、北海道の発展に尽力した。さらに、ロシアとの領土問題を解決すべく、特命全権公使に任命された武揚は語学と国際法の知識を駆使し、日本に有利な条件で条約を結ぶことに成功した。1885年には初代内閣総理大臣・伊藤博文のもと、逓信大臣に就任するなど、数々の要職を歴任した榎本武揚の真の評価とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
旧幕府軍最後のリーダーとして戊辰戦争に挑んだ榎本武揚の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1836年、幕臣・榎本武規の次男として江戸に生まれた武揚はジョン万次郎の私塾で英語を学び、世界情勢をはじめ、幅広い分野に関心を寄せる。27歳の時、幕府初の留学生としてオランダに渡ると、海軍術を学んで、1867年に帰国した。ところが、待っていたのは、十五代将軍・徳川慶喜による大政奉還であった。 旧幕府軍と新政府軍の戦いが勃発すると、武揚は軍艦・開陽丸の艦長となり、幕府艦隊を指揮するが、慶喜が大坂から江戸に逃亡したことを知り、愕然とする。慶喜が降伏した後、武揚は旧幕臣らと蝦夷へ向かい、五稜郭を拠点とし、新政府軍を迎え撃つ。武揚は軍艦を率いて果敢に応戦するも、圧倒的な兵力を前に屈服し、戊辰戦争は終結する。最後まで新政府軍と戦い続けた武揚はなぜ、降伏という苦渋の決断を下したのか? 武揚はその後、東京に移送され、収監されるが、1872年に出獄し、明治政府に出仕。蝦夷開拓使となり、北海道の発展に尽力した。さらに、ロシアとの領土問題を解決すべく、特命全権公使に任命された武揚は語学と国際法の知識を駆使し、日本に有利な条件で条約を結ぶことに成功した。1885年には初代内閣総理大臣・伊藤博文のもと、逓信大臣に就任するなど、数々の要職を歴任した榎本武揚の真の評価とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第119回「小栗忠順・逆賊の幕臣が夢見た日本の未来」

幕末に幕府の要職を歴任し、悲劇の最期を遂げた小栗忠順の敗北から現代に通じる教訓を探る。1827年、旗本・小栗忠高の長男として江戸に生まれた小栗忠順は29歳で家督を継ぎ、5年後、日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団の一員として渡米。貿易に使用する通貨の交換比率を見直す交渉を行い、アメリカ人を唸らせる。その一方で、海軍の造船所を見学した際、日米の技術力の差に圧倒されてしまう。 帰国後、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを務めた小栗は海軍の基礎を固めるべく、横須賀に造船所を造らせる。さらに、総合商社の先駆けとも言える兵庫商社を設立する。しかし、1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、状況が一変。鳥羽・伏見の戦いを皮切りに旧幕府軍と新政府軍の戦闘が激化すると、小栗は徹底抗戦を主張し、全ての役職を解任されてしまう。小栗はなぜ、幕府を追われてしまったのか? その後、小栗は上野国権田村で家族と共にひっそりと暮らす道を選択。しかし、新政府軍は小栗追討令を発し、進軍を続けた。家族を会津に逃がした小栗は無抵抗のまま、新政府軍に捕らえられ、斬首されてしまった。享年42。逆賊の汚名を着せられた小栗だが、数十年の時を経て、再評価される。東郷平八郎や大隈重信が小栗の偉業を称えたからだ。激動の幕末に国家の未来を見据え、奮闘し、儚く散った小栗忠順の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
幕末に幕府の要職を歴任し、悲劇の最期を遂げた小栗忠順の敗北から現代に通じる教訓を探る。1827年、旗本・小栗忠高の長男として江戸に生まれた小栗忠順は29歳で家督を継ぎ、5年後、日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団の一員として渡米。貿易に使用する通貨の交換比率を見直す交渉を行い、アメリカ人を唸らせる。その一方で、海軍の造船所を見学した際、日米の技術力の差に圧倒されてしまう。 帰国後、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを務めた小栗は海軍の基礎を固めるべく、横須賀に造船所を造らせる。さらに、総合商社の先駆けとも言える兵庫商社を設立する。しかし、1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、状況が一変。鳥羽・伏見の戦いを皮切りに旧幕府軍と新政府軍の戦闘が激化すると、小栗は徹底抗戦を主張し、全ての役職を解任されてしまう。小栗はなぜ、幕府を追われてしまったのか? その後、小栗は上野国権田村で家族と共にひっそりと暮らす道を選択。しかし、新政府軍は小栗追討令を発し、進軍を続けた。家族を会津に逃がした小栗は無抵抗のまま、新政府軍に捕らえられ、斬首されてしまった。享年42。逆賊の汚名を着せられた小栗だが、数十年の時を経て、再評価される。東郷平八郎や大隈重信が小栗の偉業を称えたからだ。激動の幕末に国家の未来を見据え、奮闘し、儚く散った小栗忠順の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第118回「大石内蔵助・果たせなかった浅野家再興」

赤穂浪士を率いて吉良邸討入を果たした大石内蔵助の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1659年、播磨・赤穂藩筆頭家老を務める大石家の長男として生まれた内蔵助は祖父の死を受け、21歳で家老となり、8歳年下の主君・浅野内匠頭を支える存在となる。ところが、1701年、内匠頭が江戸城松之廊下で高家肝煎・吉良上野介を斬りつける刃傷事件が起こし、即日切腹、浅野家は取り潰しという処分を下される。 一方、吉良家はお咎めなし。この不公平な裁きに藩内は紛糾。内蔵助は内匠頭の弟・浅野大学による御家再興と吉良家の処分を幕府に嘆願、打倒吉良の即時決行を求める急進派を抑えつつ、幕府の判断を待つことにした。しかし、吉良は隠居して処分を免れ、浅野家再興の願いも絶たれてしまう。これにより、内蔵助は主君の仇討ちへと舵を切る。そして、志を同じくする浪士たちをまとめ上げ、吉良邸を襲撃し、本懐を遂げる。 宿願を果たした内蔵助は自らの思いを歌にした。「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」。討入後、内蔵助をはじめとする赤穂浪士は庶民の喝采を浴びた。彼らはなぜ、英雄となったのか?幕府は赤穂浪士全員に切腹を命じた。死の直前、内蔵助は吉良家の改易を知らされる。広島本家に預けられていた大学が旗本に復し、御家再興が果たされたのは内蔵助の死から7年後のことだった。
赤穂浪士を率いて吉良邸討入を果たした大石内蔵助の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1659年、播磨・赤穂藩筆頭家老を務める大石家の長男として生まれた内蔵助は祖父の死を受け、21歳で家老となり、8歳年下の主君・浅野内匠頭を支える存在となる。ところが、1701年、内匠頭が江戸城松之廊下で高家肝煎・吉良上野介を斬りつける刃傷事件が起こし、即日切腹、浅野家は取り潰しという処分を下される。 一方、吉良家はお咎めなし。この不公平な裁きに藩内は紛糾。内蔵助は内匠頭の弟・浅野大学による御家再興と吉良家の処分を幕府に嘆願、打倒吉良の即時決行を求める急進派を抑えつつ、幕府の判断を待つことにした。しかし、吉良は隠居して処分を免れ、浅野家再興の願いも絶たれてしまう。これにより、内蔵助は主君の仇討ちへと舵を切る。そして、志を同じくする浪士たちをまとめ上げ、吉良邸を襲撃し、本懐を遂げる。 宿願を果たした内蔵助は自らの思いを歌にした。「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」。討入後、内蔵助をはじめとする赤穂浪士は庶民の喝采を浴びた。彼らはなぜ、英雄となったのか?幕府は赤穂浪士全員に切腹を命じた。死の直前、内蔵助は吉良家の改易を知らされる。広島本家に預けられていた大学が旗本に復し、御家再興が果たされたのは内蔵助の死から7年後のことだった。
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第117回「斎藤龍興・信長に美濃を追われた若き国主」

第117回「斎藤龍興・信長に美濃を追われた若き国主」

下剋上により美濃一国を手中に収めた斎藤道三の孫・斎藤龍興の敗北から現代に通じる教訓を探る。斎藤義龍の嫡男として、1547年に生まれたと考えられる龍興は1556年、父・義龍が祖父・道三を長良川の戦いで討ち取り、戦国の世の現実を思い知る。1561年、義龍が急死し、龍興が15歳の若さで美濃の国主になると、前年に桶狭間の戦いを制した、隣国・尾張の織田信長が美濃への侵攻を開始、龍興は必死に抵抗する。 18歳の時、家臣の竹中半兵衛に本拠の稲葉山城を奪われるという苦い出来事を経験。その後、居城を奪還した龍興は信長と何度も向き合い、善戦するが、21歳の時に居城を落とされ、伊勢国長島への敗走を余儀なくされる。龍興はそれでもめげることなく、京都や越前に逃れ、美濃の奪還を画策するが、27歳の若さで討死してしまった。龍興は強敵・信長を相手に奮闘したにもかかわらず、なぜ、愚将として語り継がれてしまったのか? 斎藤氏最後の当主となった龍興が愚将とされる理由の一つに「遊女を招き、朝晩遊び明かし、家臣の諫めも聞かなかった」という逸話がある。ところが、これは全くの創作であると識者は言う。龍興は勝者である信長や後に信長配下の秀吉の軍師として活躍する半兵衛を英雄に仕立て上げるために事実とは異なる逸話を勝手に創られ、語り継がれてきたというのだ。今、再評価の機運が高まる龍興の真の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
下剋上により美濃一国を手中に収めた斎藤道三の孫・斎藤龍興の敗北から現代に通じる教訓を探る。斎藤義龍の嫡男として、1547年に生まれたと考えられる龍興は1556年、父・義龍が祖父・道三を長良川の戦いで討ち取り、戦国の世の現実を思い知る。1561年、義龍が急死し、龍興が15歳の若さで美濃の国主になると、前年に桶狭間の戦いを制した、隣国・尾張の織田信長が美濃への侵攻を開始、龍興は必死に抵抗する。 18歳の時、家臣の竹中半兵衛に本拠の稲葉山城を奪われるという苦い出来事を経験。その後、居城を奪還した龍興は信長と何度も向き合い、善戦するが、21歳の時に居城を落とされ、伊勢国長島への敗走を余儀なくされる。龍興はそれでもめげることなく、京都や越前に逃れ、美濃の奪還を画策するが、27歳の若さで討死してしまった。龍興は強敵・信長を相手に奮闘したにもかかわらず、なぜ、愚将として語り継がれてしまったのか? 斎藤氏最後の当主となった龍興が愚将とされる理由の一つに「遊女を招き、朝晩遊び明かし、家臣の諫めも聞かなかった」という逸話がある。ところが、これは全くの創作であると識者は言う。龍興は勝者である信長や後に信長配下の秀吉の軍師として活躍する半兵衛を英雄に仕立て上げるために事実とは異なる逸話を勝手に創られ、語り継がれてきたというのだ。今、再評価の機運が高まる龍興の真の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第116回「三好長慶・戦国初の天下人の野望と悔恨」

信長、秀吉、家康に先んじて天下人となった三好長慶の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1522年、阿波の戦国武将・三好元長の子として生まれた長慶は11歳の時に父・元長が自害し、家督を継承。その後、メキメキと頭角を現すと、主君である室町幕府管領・細川晴元と十三代将軍・足利義輝を京都から追放し、3人の兄弟と共に勢力を拡大。畿内から四国、中国地方にまでを支配下に置く三好政権を樹立した。 長慶は嫡男・義興と共に天皇の警護を担い、朝廷の信頼も獲得するが、1561年、弟・十河一存が急死。その後、わずか数年の間に身内を3人も失うという不幸に見舞われる。長慶は甥・義継を養子に迎え、後継者に指名。その一方で唯一残った弟・安宅冬康を自害に追い込む。これを機に三好一族は弱体化し、長慶は心身を病んで他界。天下は織田信長の手に渡ってしまう。長慶はなぜ、自らの手で三好政権を弱体化させてしまったのか? 三好宗家の家督を継いだ義継は1565年、三好三人衆らと共に将軍・義輝を襲撃し殺害。しかし、後に十五代将軍となる弟・義昭に逃げられてしまう。越前の朝倉義景のもとに身を寄せた義昭が諸大名に三好氏打倒を呼びかけると、1568年、これに呼応した信長が義昭を奉じて上洛。長慶の死から9年で三好政権は終焉を迎えた。信長に先駆け、畿内を掌握し、天下人となった長慶の最大の功績とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
信長、秀吉、家康に先んじて天下人となった三好長慶の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1522年、阿波の戦国武将・三好元長の子として生まれた長慶は11歳の時に父・元長が自害し、家督を継承。その後、メキメキと頭角を現すと、主君である室町幕府管領・細川晴元と十三代将軍・足利義輝を京都から追放し、3人の兄弟と共に勢力を拡大。畿内から四国、中国地方にまでを支配下に置く三好政権を樹立した。 長慶は嫡男・義興と共に天皇の警護を担い、朝廷の信頼も獲得するが、1561年、弟・十河一存が急死。その後、わずか数年の間に身内を3人も失うという不幸に見舞われる。長慶は甥・義継を養子に迎え、後継者に指名。その一方で唯一残った弟・安宅冬康を自害に追い込む。これを機に三好一族は弱体化し、長慶は心身を病んで他界。天下は織田信長の手に渡ってしまう。長慶はなぜ、自らの手で三好政権を弱体化させてしまったのか? 三好宗家の家督を継いだ義継は1565年、三好三人衆らと共に将軍・義輝を襲撃し殺害。しかし、後に十五代将軍となる弟・義昭に逃げられてしまう。越前の朝倉義景のもとに身を寄せた義昭が諸大名に三好氏打倒を呼びかけると、1568年、これに呼応した信長が義昭を奉じて上洛。長慶の死から9年で三好政権は終焉を迎えた。信長に先駆け、畿内を掌握し、天下人となった長慶の最大の功績とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第115回「後白河法皇・院政を支持した清盛との対立」

「日本一の大天狗」とも称された後白河法皇の敗北から現代に通じる教訓を探る。1127年、鳥羽上皇の第四皇子として生まれた後白河は皇位継承の可能性が低く、少年時代から、当時、流行していた今様に熱中。しかし、29歳の時、突如、天皇となり、貴族政治の中心的存在となる。その後、保元・平治の乱を経て、平清盛が台頭すると、上皇となっていた後白河は清盛の助力を得て、42歳にして自身による院政を確立した。 1169年、出家して法皇となった後白河は清盛の協力を得て政権を運営していくが、朝廷内で清盛率いる平家一門の勢力が拡大すると、やがて、両者の間に亀裂が生じる。後白河が清盛と友好関係にある延暦寺と敵対すると、その溝はさらに拡大していった。そして1179年、清盛が治承三年の政変と呼ばれるクーデターを起こし、53歳の後白河法皇は幽閉されてしまった。後白河法皇はなぜ、政権の支持者と対立してしまったのか? 1180年、独裁政治を進める清盛に反発する声が上がり、源平合戦が勃発。その最中、後白河による院政が再開される。それから程なくして、清盛が病死。1185年、平家が滅亡し、源氏による鎌倉幕府の体制が確立する。貴族政治から武家政治に移行する大転換期に直面し、芸術文化の発展にも力を尽くした後白河は1192年、66歳で激動の人生に終止符を打った。後白河法皇の数奇な人生、そして、彼が生きた時代とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「日本一の大天狗」とも称された後白河法皇の敗北から現代に通じる教訓を探る。1127年、鳥羽上皇の第四皇子として生まれた後白河は皇位継承の可能性が低く、少年時代から、当時、流行していた今様に熱中。しかし、29歳の時、突如、天皇となり、貴族政治の中心的存在となる。その後、保元・平治の乱を経て、平清盛が台頭すると、上皇となっていた後白河は清盛の助力を得て、42歳にして自身による院政を確立した。 1169年、出家して法皇となった後白河は清盛の協力を得て政権を運営していくが、朝廷内で清盛率いる平家一門の勢力が拡大すると、やがて、両者の間に亀裂が生じる。後白河が清盛と友好関係にある延暦寺と敵対すると、その溝はさらに拡大していった。そして1179年、清盛が治承三年の政変と呼ばれるクーデターを起こし、53歳の後白河法皇は幽閉されてしまった。後白河法皇はなぜ、政権の支持者と対立してしまったのか? 1180年、独裁政治を進める清盛に反発する声が上がり、源平合戦が勃発。その最中、後白河による院政が再開される。それから程なくして、清盛が病死。1185年、平家が滅亡し、源氏による鎌倉幕府の体制が確立する。貴族政治から武家政治に移行する大転換期に直面し、芸術文化の発展にも力を尽くした後白河は1192年、66歳で激動の人生に終止符を打った。後白河法皇の数奇な人生、そして、彼が生きた時代とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第114回「徳川吉宗・享保の改革に挑んだ米将軍の誤算」

享保の改革を手掛けた徳川吉宗の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1684年、徳川御三家の一つ、紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれた吉宗は元々、藩主を継ぐ可能性が低かったが、父と二人の兄が相次いで亡くなったため、22歳で藩主に就任。質素倹約を徹底し、藩の財政を再建したことで名君として名を馳せる。そして1716年、七代将軍・徳川家継が早逝すると、33歳の吉宗が八代将軍に就任した。 吉宗は徹底的に支出を抑え、新田開発を推進し、石高を増やす財政改革に着手するが、米の取引価格が下落し、景気は一向に回復しない。そこで、米の買い占めや大坂の米相場への介入など、米価の統制に乗り出し、吉宗は米将軍とあだ名された。その後、西日本を中心に大飢饉が発生し、米価が高騰すると、庶民が蜂起し、幕府誕生以来初となる、江戸での打ちこわしが発生した。吉宗はなぜ、米価をコントロールできなかったのか? 江戸での打ちこわしが収束すると、米価は再び下落してしまう。吉宗は米価の下限を定めるなど、様々な手を尽くすが、なかなか効果は上がらなかった。一計を案じた吉宗はお金の供給量を増やすことを決断。すると、米価は上がり、景気は回復の兆しを見せ、吉宗が目指した幕府の財政再建も実現した。目安箱の設置や小石川養生所の設立など、庶民のための政策も多く手掛けたが、経済面では翻弄され続けた享保の改革の評価とは?
享保の改革を手掛けた徳川吉宗の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1684年、徳川御三家の一つ、紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれた吉宗は元々、藩主を継ぐ可能性が低かったが、父と二人の兄が相次いで亡くなったため、22歳で藩主に就任。質素倹約を徹底し、藩の財政を再建したことで名君として名を馳せる。そして1716年、七代将軍・徳川家継が早逝すると、33歳の吉宗が八代将軍に就任した。 吉宗は徹底的に支出を抑え、新田開発を推進し、石高を増やす財政改革に着手するが、米の取引価格が下落し、景気は一向に回復しない。そこで、米の買い占めや大坂の米相場への介入など、米価の統制に乗り出し、吉宗は米将軍とあだ名された。その後、西日本を中心に大飢饉が発生し、米価が高騰すると、庶民が蜂起し、幕府誕生以来初となる、江戸での打ちこわしが発生した。吉宗はなぜ、米価をコントロールできなかったのか? 江戸での打ちこわしが収束すると、米価は再び下落してしまう。吉宗は米価の下限を定めるなど、様々な手を尽くすが、なかなか効果は上がらなかった。一計を案じた吉宗はお金の供給量を増やすことを決断。すると、米価は上がり、景気は回復の兆しを見せ、吉宗が目指した幕府の財政再建も実現した。目安箱の設置や小石川養生所の設立など、庶民のための政策も多く手掛けたが、経済面では翻弄され続けた享保の改革の評価とは?
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第113回「徳川光圀・将軍綱吉との対立と黄門さまの実像」

時代劇のヒーロー・徳川光圀の敗北から現代に通じる教訓を探る。1628年、徳川家康の十一男で初代水戸藩主となった徳川頼房の三男として、現在の茨城県水戸市に生まれた光圀はそもそも望まれて誕生した子ではなかった。6歳の時に頼房の世継ぎとして認められ、江戸・小石川の水戸藩邸に入った光圀は18歳の時に古代中国の歴史家・司馬遷が記した『史記』の伯夷伝を読んで感銘を受け、自分が進むべき道は勉学であると目覚めた。 30歳の時に神武天皇以来、百代の天皇を中心とする歴史を記す『大日本史』の編纂事業に着手した光圀は34歳で二代水戸藩主となり、飲料水不足に苦しむ領民のために水道を造らせるなど善政を進める一方、明の儒学者・朱舜水を招き、後に水戸学と称される学問の礎を築いた。ところが、自らが将軍就任を支持した五代将軍・徳川綱吉と対立し、隠居の決断を余儀なくされてしまう。光圀はなぜ、藩主の座を退くことになったのか? 64歳の光圀は水戸城からおよそ20キロ離れた西山荘に移り住むと、ライフワークである『大日本史』の編纂に勤しむ傍ら、積極的に領内の視察にも出掛けた。美食を好み、健康にも留意していたが、1700年、病に倒れ、『大日本史』の完成を見ることなく、この世を去った。享年73。『大日本史』全巻が完成したのは明治末期、1906年のことだった。「黄門さま」「ご老公」のイメージで広く知られる徳川光圀の魅力と真実とは?
時代劇のヒーロー・徳川光圀の敗北から現代に通じる教訓を探る。1628年、徳川家康の十一男で初代水戸藩主となった徳川頼房の三男として、現在の茨城県水戸市に生まれた光圀はそもそも望まれて誕生した子ではなかった。6歳の時に頼房の世継ぎとして認められ、江戸・小石川の水戸藩邸に入った光圀は18歳の時に古代中国の歴史家・司馬遷が記した『史記』の伯夷伝を読んで感銘を受け、自分が進むべき道は勉学であると目覚めた。 30歳の時に神武天皇以来、百代の天皇を中心とする歴史を記す『大日本史』の編纂事業に着手した光圀は34歳で二代水戸藩主となり、飲料水不足に苦しむ領民のために水道を造らせるなど善政を進める一方、明の儒学者・朱舜水を招き、後に水戸学と称される学問の礎を築いた。ところが、自らが将軍就任を支持した五代将軍・徳川綱吉と対立し、隠居の決断を余儀なくされてしまう。光圀はなぜ、藩主の座を退くことになったのか? 64歳の光圀は水戸城からおよそ20キロ離れた西山荘に移り住むと、ライフワークである『大日本史』の編纂に勤しむ傍ら、積極的に領内の視察にも出掛けた。美食を好み、健康にも留意していたが、1700年、病に倒れ、『大日本史』の完成を見ることなく、この世を去った。享年73。『大日本史』全巻が完成したのは明治末期、1906年のことだった。「黄門さま」「ご老公」のイメージで広く知られる徳川光圀の魅力と真実とは?
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第112回「伊藤博文・挑み続けた不平等条約改正」

第112回「伊藤博文・挑み続けた不平等条約改正」

内閣総理大臣を4回務め、大日本帝国憲法を制定した伊藤博文の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1841年、長州藩の農民の子として生まれた伊藤は16歳で吉田松陰が主宰する松下村塾に入門し、その後、長州五傑の一員として渡英。1871年には岩倉使節団の副使として、欧米との不平等条約改正交渉に臨むが、失敗してしまう。帰国後、明治政府の主導者となった伊藤は近代国家としての日本を確立すべく舵を取る。 1885年、伊藤は初代内閣総理大臣に就任。その後、枢密院の議長となり、憲法の制定に尽力し、1889年、大日本帝国憲法を発布する。この間、伊藤は外務大臣に大隈重信を抜擢し、懸案となっていた不平等条約の改正を目指した。ところが、大隈の強硬な外交方針に国内外から批判が集中、条約改正交渉はまたも暗礁に乗り上げてしまった。その時、伊藤が取った、思い切った行動とは? 1892年、伊藤は二度目の内閣を組織すると、陸奥宗光を外務大臣に据え、日本が近代憲法を持つ国家であることを世界に訴え、不平等条約改正を目指した。そして、イギリスを相手に交渉を進め、1894年、領事裁判権の撤廃を勝ち取った。1905年、韓国統監府の初代長官に就任した伊藤は4年後、満州のハルビンで銃撃され、激動の生涯に幕を降ろした。享年69。近代国家としての土台作りを伊藤が成し得た理由とは?
内閣総理大臣を4回務め、大日本帝国憲法を制定した伊藤博文の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1841年、長州藩の農民の子として生まれた伊藤は16歳で吉田松陰が主宰する松下村塾に入門し、その後、長州五傑の一員として渡英。1871年には岩倉使節団の副使として、欧米との不平等条約改正交渉に臨むが、失敗してしまう。帰国後、明治政府の主導者となった伊藤は近代国家としての日本を確立すべく舵を取る。 1885年、伊藤は初代内閣総理大臣に就任。その後、枢密院の議長となり、憲法の制定に尽力し、1889年、大日本帝国憲法を発布する。この間、伊藤は外務大臣に大隈重信を抜擢し、懸案となっていた不平等条約の改正を目指した。ところが、大隈の強硬な外交方針に国内外から批判が集中、条約改正交渉はまたも暗礁に乗り上げてしまった。その時、伊藤が取った、思い切った行動とは? 1892年、伊藤は二度目の内閣を組織すると、陸奥宗光を外務大臣に据え、日本が近代憲法を持つ国家であることを世界に訴え、不平等条約改正を目指した。そして、イギリスを相手に交渉を進め、1894年、領事裁判権の撤廃を勝ち取った。1905年、韓国統監府の初代長官に就任した伊藤は4年後、満州のハルビンで銃撃され、激動の生涯に幕を降ろした。享年69。近代国家としての土台作りを伊藤が成し得た理由とは?
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第111回「岩倉具視・海外で直面した国際常識の壁」

「維新の十傑」の一人・岩倉具視の敗北から現代に通じる教訓を探る。1825年、公卿・堀河康親の次男として京都に生まれ、14歳で公卿・岩倉具慶の養子となった岩倉具視は29歳の時、歌道を学ぶため、関白・鷹司政通の弟子となり、出世の道を歩み始める。やがて、外圧が高まると、幕府は公武合体を目指し、十四代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻を画策。岩倉は朝廷内の大多数が反対する中、和宮降嫁を実現させた。 佐幕派と見なされた岩倉は5年もの蟄居生活を余儀なくされる。1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉は大久保利通らと共に王政復古のクーデターを成功させ、明治新政府の樹立に貢献。その後、版籍奉還などの重要政策に関与した後、特命全権大使として欧米諸国の視察に向かうが、アメリカと結んだ不平等条約改正交渉を途中で断念してしまう。岩倉はなぜ、アメリカとの交渉を思い通りに進められなかったのか? 欧米で鉄道に衝撃を受けた岩倉は1881年、現在のJR東日本のルーツである日本鉄道を設立。自らが失敗した条約改正を実現するためには近代国家の証である憲法を持つことが必須であると痛感し、その制定を目指すが、志半ばで病に倒れる。そして、明治天皇が直々にお見舞いに訪れた翌日、静かに息を引き取った。享年59。岩倉の葬儀は日本初の国葬として執り行われた。日本の近代化に力を尽くした岩倉の子孫が語る思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「維新の十傑」の一人・岩倉具視の敗北から現代に通じる教訓を探る。1825年、公卿・堀河康親の次男として京都に生まれ、14歳で公卿・岩倉具慶の養子となった岩倉具視は29歳の時、歌道を学ぶため、関白・鷹司政通の弟子となり、出世の道を歩み始める。やがて、外圧が高まると、幕府は公武合体を目指し、十四代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻を画策。岩倉は朝廷内の大多数が反対する中、和宮降嫁を実現させた。 佐幕派と見なされた岩倉は5年もの蟄居生活を余儀なくされる。1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉は大久保利通らと共に王政復古のクーデターを成功させ、明治新政府の樹立に貢献。その後、版籍奉還などの重要政策に関与した後、特命全権大使として欧米諸国の視察に向かうが、アメリカと結んだ不平等条約改正交渉を途中で断念してしまう。岩倉はなぜ、アメリカとの交渉を思い通りに進められなかったのか? 欧米で鉄道に衝撃を受けた岩倉は1881年、現在のJR東日本のルーツである日本鉄道を設立。自らが失敗した条約改正を実現するためには近代国家の証である憲法を持つことが必須であると痛感し、その制定を目指すが、志半ばで病に倒れる。そして、明治天皇が直々にお見舞いに訪れた翌日、静かに息を引き取った。享年59。岩倉の葬儀は日本初の国葬として執り行われた。日本の近代化に力を尽くした岩倉の子孫が語る思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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