偉人・敗北からの教訓
歴史ファンの間で「戦国最弱の武将」と称される小田氏治の敗北から現代に通じる教訓を探る。氏治が生まれた小田家は鎌倉時代に常陸の守護を務め、鎌倉幕府の十三人の合議制に加わった有力御家人・八田知家を祖とする名門。1531年に生まれたと考えられる氏治は18歳の時に小田家十五代当主となり、先祖伝来の土地と領民を守るため、必死に生き残りを図るが、本拠地・小田城が度々、陥落してしまう。
しかし、氏治はその都度、城を奪還し、武勇を示す。そのため、氏治は「常陸の不死鳥」とも呼ばれている。北関東に北条氏と上杉氏が勢力を拡大する中、氏治は近隣の結城氏、佐竹氏らと激戦を重ねるが、1590年、何度も成功してきた小田城の奪還に失敗、挙句の果てに所領を全て奪われてしまう。氏治はなぜ、名門・小田家を没落させてしまったのか?そして、本拠地・小田城の奪還にこだわり続けた理由とは?
全所領を失った氏治はかつての宿敵・結城氏の居城で晩年を過ごした。徳川家康の次男・結城秀康の客分となることが許され、300石を得たためである。そして氏治は関ヶ原の戦いの翌年、激動の人生に幕を降ろした。土浦市立博物館に氏治の人柄を偲ばせる史料が残されている。江戸時代半ば、氏治の百五十回忌に集まった人々の名簿である。「戦国最弱」と不名誉なキャッチフレーズを冠された氏治の実像と魅力は?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)