偉人・敗北からの教訓
東の本多忠勝と並び、東西無双と称えられる猛将・立花宗茂の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、豊後の大友宗麟に仕える高橋紹運の嫡男として生まれた宗茂は15歳の時、同じく宗麟の重臣・戸次道雪の婿養子となり、立花城に入る。この頃、宗麟は島津氏との戦いに敗れ、大友氏の勢力は衰退するが、宗茂は島津軍を相手に奮闘。九州平定を成し遂げた豊臣秀吉から柳川の地を与えられ、独立大名への出世を果たす。
その後、朝鮮出兵でも活躍した宗茂は秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立すると、周囲の反対を押し切って西軍に味方し、大津城を陥落させるも、関ヶ原の本戦には間に合わなかった。宗茂は柳川城を明け渡す決断を下すが、家康は納得せず、宗茂を改易処分とした。戦の天才と称され、戦場で無類の強さを誇った宗茂はなぜ、天下分け目の戦いで西軍に加担し、全ての所領を失う結果となったのか?
1602年、最愛の妻・誾千代が死去。旧領復帰を切望していた宗茂は武芸や芸能の腕を磨きながら時を過ごした。1605年、徳川秀忠が二代将軍に就任すると、宗茂は将軍の側近である御書院番頭に。翌1606年には陸奥国棚倉1万石の大名に復帰した。そして1620年、旧領である柳川の大名に返り咲いた。関ヶ原の戦いの後に改易され、旧領に復帰できた大名はただ一人。宗茂はなぜ、奇跡の復活を遂げることができたのか?