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偉人・敗北からの教訓
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第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」後編

偉人・敗北からの教訓

第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」後編

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「人は城、人は石垣、人は堀」との言葉を残した信玄は何よりも家臣を大切にした。信玄は館に住み、堅固な居城は造らなかったと考えられていたが、近年、新たな事実が判明した。なんと、甲府の街を要塞化していたのだ!越後への進出を断念した信玄は太平洋側の港を求め、駿河に侵攻。しかし、これが嫡男・義信の謀叛を招いてしまう。クーデターに失敗し、謎の死を遂げた義信。その真相を歴史学者・平山優が解き明かす!

義信亡き後、信玄の後継者となった勝頼は1573年に信玄が他界した事実をなんと3年も隠し続けた。その理由を甲州市にある信玄の菩提寺・恵林寺で探る。宝物・武田不動尊に込められた思いとは?勝頼は長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍にまさかの大敗を喫してしまうが、再起を図り、現在の韮崎市に巨大な城・新府城を築く。城郭ライター・萩原さちこが新府城の遺構を巡り、特徴を解説。勝頼が描いたビジョンを読み解く!

1582年、織田軍が甲州攻めを開始。勝頼は新府城を捨て逃亡、わずかな手勢で戦うも力尽き、名門・武田家は滅亡してしまう。伊東潤と中西悠理が最後に訪れたのは、勝頼の菩提寺・景徳院。二人は無念の最期を迎えた勝頼の心中に思いを馳せる。戦国大名としての武田氏は滅びたが、その後、高家として復活。一族の子孫が先祖から受け継ぐ家訓を語る。そして、武田三代の足跡を辿り、改めて実感した、今日に通じる教訓とは?

【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)

エピソード

第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」後編

「人は城、人は石垣、人は堀」との言葉を残した信玄は何よりも家臣を大切にした。信玄は館に住み、堅固な居城は造らなかったと考えられていたが、近年、新たな事実が判明した。なんと、甲府の街を要塞化していたのだ!越後への進出を断念した信玄は太平洋側の港を求め、駿河に侵攻。しかし、これが嫡男・義信の謀叛を招いてしまう。クーデターに失敗し、謎の死を遂げた義信。その真相を歴史学者・平山優が解き明かす! 義信亡き後、信玄の後継者となった勝頼は1573年に信玄が他界した事実をなんと3年も隠し続けた。その理由を甲州市にある信玄の菩提寺・恵林寺で探る。宝物・武田不動尊に込められた思いとは?勝頼は長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍にまさかの大敗を喫してしまうが、再起を図り、現在の韮崎市に巨大な城・新府城を築く。城郭ライター・萩原さちこが新府城の遺構を巡り、特徴を解説。勝頼が描いたビジョンを読み解く! 1582年、織田軍が甲州攻めを開始。勝頼は新府城を捨て逃亡、わずかな手勢で戦うも力尽き、名門・武田家は滅亡してしまう。伊東潤と中西悠理が最後に訪れたのは、勝頼の菩提寺・景徳院。二人は無念の最期を迎えた勝頼の心中に思いを馳せる。戦国大名としての武田氏は滅びたが、その後、高家として復活。一族の子孫が先祖から受け継ぐ家訓を語る。そして、武田三代の足跡を辿り、改めて実感した、今日に通じる教訓とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「人は城、人は石垣、人は堀」との言葉を残した信玄は何よりも家臣を大切にした。信玄は館に住み、堅固な居城は造らなかったと考えられていたが、近年、新たな事実が判明した。なんと、甲府の街を要塞化していたのだ!越後への進出を断念した信玄は太平洋側の港を求め、駿河に侵攻。しかし、これが嫡男・義信の謀叛を招いてしまう。クーデターに失敗し、謎の死を遂げた義信。その真相を歴史学者・平山優が解き明かす! 義信亡き後、信玄の後継者となった勝頼は1573年に信玄が他界した事実をなんと3年も隠し続けた。その理由を甲州市にある信玄の菩提寺・恵林寺で探る。宝物・武田不動尊に込められた思いとは?勝頼は長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍にまさかの大敗を喫してしまうが、再起を図り、現在の韮崎市に巨大な城・新府城を築く。城郭ライター・萩原さちこが新府城の遺構を巡り、特徴を解説。勝頼が描いたビジョンを読み解く! 1582年、織田軍が甲州攻めを開始。勝頼は新府城を捨て逃亡、わずかな手勢で戦うも力尽き、名門・武田家は滅亡してしまう。伊東潤と中西悠理が最後に訪れたのは、勝頼の菩提寺・景徳院。二人は無念の最期を迎えた勝頼の心中に思いを馳せる。戦国大名としての武田氏は滅びたが、その後、高家として復活。一族の子孫が先祖から受け継ぐ家訓を語る。そして、武田三代の足跡を辿り、改めて実感した、今日に通じる教訓とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」前編

第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」前編

伊東潤と中西悠理が甲府を起点に武田氏の足跡を辿る歴史旅。まず向かったのは、信玄を祭神として祀る武田神社。1519年、信玄の父・信虎がこの地に居館を移したことで甲府の街は発展した。武田神社の北東にそびえる要害山には武田氏の詰城も築かれた。武田家の菩提寺・大泉寺では信虎の肖像画や武田三代の木像を見ながら、各々の人物像に迫る。印傳博物館では武田軍団の甲冑や武具にも用いられた伝統の技と意匠を垣間見る。 富士河口湖町にある冨士御室浅間神社では甲斐の歴史を研究する上での基本史料と位置づけられる『勝山記』の記述をもとに、信虎の政治信条と行動を探る。1541年、信虎は息子・信玄らによるクーデターにより追放されてしまう。その裏には重臣たちの苦悩も!信虎の追放は悪逆無道な行為を重ね、家中や領民の間に不満が鬱積した結果だと伝わるが、信虎は本当に悪政を敷いていたのか?信虎の知られざる実像が今、明らかに! 武田家の家督を継いだ信玄は国力を強化すべく金山を開発。一行は身延町にある湯之奥金山を訪問し、金の採掘法を学ぶ。金山で働く金山衆の技術は武田氏の戦術にも活かされていた!さらに、採掘した金によって生まれたのが画期的な貨幣制度。富国強兵を推進する信玄は北への領土拡大を図り、苦心の末に北信濃の猛将・村上義清を下すと、日本海の港を手に入れるべく、越後を目指した。そして、川中島で宿敵・上杉謙信と激突する! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
伊東潤と中西悠理が甲府を起点に武田氏の足跡を辿る歴史旅。まず向かったのは、信玄を祭神として祀る武田神社。1519年、信玄の父・信虎がこの地に居館を移したことで甲府の街は発展した。武田神社の北東にそびえる要害山には武田氏の詰城も築かれた。武田家の菩提寺・大泉寺では信虎の肖像画や武田三代の木像を見ながら、各々の人物像に迫る。印傳博物館では武田軍団の甲冑や武具にも用いられた伝統の技と意匠を垣間見る。 富士河口湖町にある冨士御室浅間神社では甲斐の歴史を研究する上での基本史料と位置づけられる『勝山記』の記述をもとに、信虎の政治信条と行動を探る。1541年、信虎は息子・信玄らによるクーデターにより追放されてしまう。その裏には重臣たちの苦悩も!信虎の追放は悪逆無道な行為を重ね、家中や領民の間に不満が鬱積した結果だと伝わるが、信虎は本当に悪政を敷いていたのか?信虎の知られざる実像が今、明らかに! 武田家の家督を継いだ信玄は国力を強化すべく金山を開発。一行は身延町にある湯之奥金山を訪問し、金の採掘法を学ぶ。金山で働く金山衆の技術は武田氏の戦術にも活かされていた!さらに、採掘した金によって生まれたのが画期的な貨幣制度。富国強兵を推進する信玄は北への領土拡大を図り、苦心の末に北信濃の猛将・村上義清を下すと、日本海の港を手に入れるべく、越後を目指した。そして、川中島で宿敵・上杉謙信と激突する! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第99回「藤堂高虎・豊臣兄弟が導いた運命」

黒田官兵衛、加藤清正と共に「三大築城名人」と謳われる藤堂高虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1556年、近江国の土豪の子として生まれ、幼い頃から体格に恵まれていた高虎は、若くして北近江の大名・浅井長政に仕え、姉川の戦いで初陣を飾るが、17歳の時に同僚を殺害し、浅井家を出奔。その後、わずか3年の間に主君を3人も替えるが、21歳の時、5人目の主君・羽柴秀長に出会ったことで運命が一変する。 秀長のもとで戦術や築城術、交渉術など、様々な能力を磨いた高虎は、数々の合戦で武功を挙げ、秀長の兄・豊臣秀吉の天下統一事業を支える。その後、朝鮮出兵でも活躍するが、一途に仕えてきた主君・秀長の死後、家督を継いだ若き主君・豊臣秀保をわずか4年で失い、主家を失ってしまう。その時、同僚の大半が秀吉の直臣となる中、高虎は高野山に上り、出家してしまった。高虎はなぜ、自ら武士の身分を捨てたのか? その後、高虎は秀吉の強い要望を受け、還俗。秀吉没後は家康に従い、関ヶ原の戦いでは西軍諸将を調略するなど、東軍の勝利に貢献する。津城や江戸城など、様々な築城にも力を尽くした高虎は、最終的に32万石もの所領を得た。初代津藩主として城下町を整備し、津の礎を築いた高虎は高山神社に祀られている。一度は出家したものの、大大名へと躍進し、三代将軍・家光の代まで徳川将軍家に忠義を尽くした、藤堂高虎の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
黒田官兵衛、加藤清正と共に「三大築城名人」と謳われる藤堂高虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1556年、近江国の土豪の子として生まれ、幼い頃から体格に恵まれていた高虎は、若くして北近江の大名・浅井長政に仕え、姉川の戦いで初陣を飾るが、17歳の時に同僚を殺害し、浅井家を出奔。その後、わずか3年の間に主君を3人も替えるが、21歳の時、5人目の主君・羽柴秀長に出会ったことで運命が一変する。 秀長のもとで戦術や築城術、交渉術など、様々な能力を磨いた高虎は、数々の合戦で武功を挙げ、秀長の兄・豊臣秀吉の天下統一事業を支える。その後、朝鮮出兵でも活躍するが、一途に仕えてきた主君・秀長の死後、家督を継いだ若き主君・豊臣秀保をわずか4年で失い、主家を失ってしまう。その時、同僚の大半が秀吉の直臣となる中、高虎は高野山に上り、出家してしまった。高虎はなぜ、自ら武士の身分を捨てたのか? その後、高虎は秀吉の強い要望を受け、還俗。秀吉没後は家康に従い、関ヶ原の戦いでは西軍諸将を調略するなど、東軍の勝利に貢献する。津城や江戸城など、様々な築城にも力を尽くした高虎は、最終的に32万石もの所領を得た。初代津藩主として城下町を整備し、津の礎を築いた高虎は高山神社に祀られている。一度は出家したものの、大大名へと躍進し、三代将軍・家光の代まで徳川将軍家に忠義を尽くした、藤堂高虎の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第98回「奥州藤原氏・独立国家を夢見た北方の王者」

平安末期、北方の王者として君臨し、独立国家を夢見た奥州藤原氏の敗北から明日を生きるための教訓を探る。奥州藤原氏の初代・清衡は後三年の役の後、平泉を開拓し、中尊寺を建立、仏教と交易を軸にした独立国家の実現に邁進する。二代・基衡は財力を武器に中央政府に接近、朝廷や摂関家との絆を強め、勢力基盤を強化した。三代・秀衡は日宋貿易に勤しむ平家を支援し、陸奥鎮守府将軍の座を獲得した。 源平合戦が始まると、秀衡は中立を貫くが、源氏が平家を滅ぼした後、源頼朝と対立した弟・源義経を平泉に迎え入れる。ところが、そのわずか半年後、秀衡は他界、跡を継いだ四代・泰衡は義経と共に生き残りを図るが、頼朝の圧力に屈し、義経を襲撃してしまう。その後、頼朝が大軍で平泉に攻め寄せ、泰衡は討死、奥州藤原氏の栄華は約100年で幕を降ろした。奥州藤原氏はなぜ、四代で滅びてしまったのか? 奥州藤原氏は滅亡を招いた四代・泰衡を抜き、清衡・基衡・秀衡の三代で語られることが多いが、泰衡は果たして無能だったのか?頼朝に攻められた際、泰衡は自分の屋敷だけを焼いて北へ逃れたため、平泉は戦場にならずに済んだ。約800年経った今もなお、平泉に多くの史跡が残る理由がここにある。その結果、2011年、平泉は世界文化遺産に登録された。平泉の地を必死に守った四代・泰衡の思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
平安末期、北方の王者として君臨し、独立国家を夢見た奥州藤原氏の敗北から明日を生きるための教訓を探る。奥州藤原氏の初代・清衡は後三年の役の後、平泉を開拓し、中尊寺を建立、仏教と交易を軸にした独立国家の実現に邁進する。二代・基衡は財力を武器に中央政府に接近、朝廷や摂関家との絆を強め、勢力基盤を強化した。三代・秀衡は日宋貿易に勤しむ平家を支援し、陸奥鎮守府将軍の座を獲得した。 源平合戦が始まると、秀衡は中立を貫くが、源氏が平家を滅ぼした後、源頼朝と対立した弟・源義経を平泉に迎え入れる。ところが、そのわずか半年後、秀衡は他界、跡を継いだ四代・泰衡は義経と共に生き残りを図るが、頼朝の圧力に屈し、義経を襲撃してしまう。その後、頼朝が大軍で平泉に攻め寄せ、泰衡は討死、奥州藤原氏の栄華は約100年で幕を降ろした。奥州藤原氏はなぜ、四代で滅びてしまったのか? 奥州藤原氏は滅亡を招いた四代・泰衡を抜き、清衡・基衡・秀衡の三代で語られることが多いが、泰衡は果たして無能だったのか?頼朝に攻められた際、泰衡は自分の屋敷だけを焼いて北へ逃れたため、平泉は戦場にならずに済んだ。約800年経った今もなお、平泉に多くの史跡が残る理由がここにある。その結果、2011年、平泉は世界文化遺産に登録された。平泉の地を必死に守った四代・泰衡の思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第97回「三浦按針・将軍家康を支えた青い目のサムライ」

徳川家康の側近として海外貿易に従事した旗本・三浦按針の敗北から現代に通じる教訓を探る。1564年、イギリス南東部の港町・ジリンガムに生まれた按針は12歳でロンドンの船大工に弟子入り、年季明けと同時に海軍に入り、スペイン無敵艦隊との戦いに参加した。そして、貿易会社に約10年勤めた後、オランダ東洋遠征隊の航海士として、1600年、命からがら豊後国に到達。関ヶ原の戦いの半年前のことだった。 豊臣政権の五大老筆頭・家康に命を救われた按針は日本初の洋式帆船を造ると、相模国に所領を授かり、旗本となる。さらに家康の外交顧問としても活躍し、オランダやイギリスとの貿易を実現させる。ところが、1616年、家康がこの世を去ると、二代将軍・徳川秀忠により、日本と西洋との貿易が大幅に制限されてしまう。海外貿易の拡大に尽力した按針はなぜ、不遇な環境へと追いやられたのか? 1616年、按針はイギリス商館との契約を終わらせ、独立して、東南アジアを中心とする貿易に従事するが、その後、体調を崩し、1620年、平戸でその生涯を閉じた。按針の菩提寺、神奈川県横浜市にある浄土寺には按針ゆかりの貴重な品々が収められている。按針の死後、所領は息子ジョゼフが相続し、二代目三浦按針を名乗り、朱印船貿易に従事した。江戸幕府の創成期、西洋への窓口となった按針の最大の功績とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
徳川家康の側近として海外貿易に従事した旗本・三浦按針の敗北から現代に通じる教訓を探る。1564年、イギリス南東部の港町・ジリンガムに生まれた按針は12歳でロンドンの船大工に弟子入り、年季明けと同時に海軍に入り、スペイン無敵艦隊との戦いに参加した。そして、貿易会社に約10年勤めた後、オランダ東洋遠征隊の航海士として、1600年、命からがら豊後国に到達。関ヶ原の戦いの半年前のことだった。 豊臣政権の五大老筆頭・家康に命を救われた按針は日本初の洋式帆船を造ると、相模国に所領を授かり、旗本となる。さらに家康の外交顧問としても活躍し、オランダやイギリスとの貿易を実現させる。ところが、1616年、家康がこの世を去ると、二代将軍・徳川秀忠により、日本と西洋との貿易が大幅に制限されてしまう。海外貿易の拡大に尽力した按針はなぜ、不遇な環境へと追いやられたのか? 1616年、按針はイギリス商館との契約を終わらせ、独立して、東南アジアを中心とする貿易に従事するが、その後、体調を崩し、1620年、平戸でその生涯を閉じた。按針の菩提寺、神奈川県横浜市にある浄土寺には按針ゆかりの貴重な品々が収められている。按針の死後、所領は息子ジョゼフが相続し、二代目三浦按針を名乗り、朱印船貿易に従事した。江戸幕府の創成期、西洋への窓口となった按針の最大の功績とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第96回「応仁の乱・戦国の世を招いた不毛な戦い」

日本を戦国時代へと導いた応仁の乱の過ちから明日を生きるための教訓を探る。室町幕府は六代将軍・足利義教が守護大名・赤松氏に殺害されたことを機に衰退。八代将軍・足利義政の時代には幕政を取り仕切る三管領・細川氏、畠山氏、斯波氏による勢力争いが激化し、やがて、義政の後継者を巡り、義政の息子・義尚を支持する細川勝元と義政の弟・義視を支持する山名宗全が対立、全国の守護大名を巻き込む大乱につながっていく。 1467年、応仁・文明の乱が勃発。しかし、その争いはやがて名目を失い、各々の利権争いへ転じる。諸大名の離反、寝返りも相次ぎ、戦が泥沼化する中、西軍の宗全が病死、次いで東軍の勝元も戦を終わらせることなく、この世を去ってしまう。京都を焼け野原にした戦いは幕府をさらに弱体化させ、日本を空前絶後の乱世、戦国時代へと導くことに。不毛な戦いを11年もの長きにわたって継続してしまった理由とは? 宗全と勝元の死後、家督を継いだ山名政豊と細川政元の間で和睦が成立するが、西軍諸将は戦の継続を表明する。そこで、将軍・義政の正室、日野富子が彼らと交渉し、和睦を受け入れさせ、11年に及んだ大乱は終結した。その後、領国に戻った諸大名は各々が独立した戦国大名となり、各地で覇権を争う戦国時代へと突入する。日本史上稀に見る大乱、応仁の乱が現代の私たちに投げかける教訓とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
日本を戦国時代へと導いた応仁の乱の過ちから明日を生きるための教訓を探る。室町幕府は六代将軍・足利義教が守護大名・赤松氏に殺害されたことを機に衰退。八代将軍・足利義政の時代には幕政を取り仕切る三管領・細川氏、畠山氏、斯波氏による勢力争いが激化し、やがて、義政の後継者を巡り、義政の息子・義尚を支持する細川勝元と義政の弟・義視を支持する山名宗全が対立、全国の守護大名を巻き込む大乱につながっていく。 1467年、応仁・文明の乱が勃発。しかし、その争いはやがて名目を失い、各々の利権争いへ転じる。諸大名の離反、寝返りも相次ぎ、戦が泥沼化する中、西軍の宗全が病死、次いで東軍の勝元も戦を終わらせることなく、この世を去ってしまう。京都を焼け野原にした戦いは幕府をさらに弱体化させ、日本を空前絶後の乱世、戦国時代へと導くことに。不毛な戦いを11年もの長きにわたって継続してしまった理由とは? 宗全と勝元の死後、家督を継いだ山名政豊と細川政元の間で和睦が成立するが、西軍諸将は戦の継続を表明する。そこで、将軍・義政の正室、日野富子が彼らと交渉し、和睦を受け入れさせ、11年に及んだ大乱は終結した。その後、領国に戻った諸大名は各々が独立した戦国大名となり、各地で覇権を争う戦国時代へと突入する。日本史上稀に見る大乱、応仁の乱が現代の私たちに投げかける教訓とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第95回「加藤清正・関ヶ原に参戦できなかった築城名人」

名城・熊本城を築き、三大築城名人の一人に数えられる加藤清正の敗北から現代に通じる教訓を探る。1562年、刀鍛冶の子として尾張国に生まれた清正は12歳の時に羽柴秀吉の小姓となり、その後、中国攻めに従軍。本能寺の変の後、秀吉が柴田勝家と争うと「賤ヶ岳の七本槍」の一人に名を連ねる活躍を見せ、秀吉の九州平定後、肥後北半国19万5000石の大名に出世した。さらに文禄・慶長の役でも武功を挙げる。 しかし、その最中に主君・秀吉が亡くなってしまう。清正は豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康に接近し、家康の養女を妻に迎えると、1600年、五大老の一人、上杉景勝を討伐すべく会津攻めへの従軍を志願する。ところが、あろうことか、家康に肥後での謹慎を命じられてしまう。その結果、清正は関ヶ原の戦いに参加することもできなかった。清正はなぜ、家康に従軍することを拒否されてしまったのか? 関ヶ原の戦いの後、清正は肥後南半国の領主で西軍に加わった小西行長の居城を攻めるなど、東軍に貢献し、肥後一国52万石の大大名となる。家康が江戸に幕府を開いた8年後、清正は京都・二条城で開かれる、家康と豊臣秀頼の歴史的会見に徳川家臣として同席。その帰路、突然の病に侵され、50歳で生涯を閉じた。二人の天下人に仕え、地元・熊本の人々を中心に「清正公さん」と呼ばれ、慕われている清正の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
名城・熊本城を築き、三大築城名人の一人に数えられる加藤清正の敗北から現代に通じる教訓を探る。1562年、刀鍛冶の子として尾張国に生まれた清正は12歳の時に羽柴秀吉の小姓となり、その後、中国攻めに従軍。本能寺の変の後、秀吉が柴田勝家と争うと「賤ヶ岳の七本槍」の一人に名を連ねる活躍を見せ、秀吉の九州平定後、肥後北半国19万5000石の大名に出世した。さらに文禄・慶長の役でも武功を挙げる。 しかし、その最中に主君・秀吉が亡くなってしまう。清正は豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康に接近し、家康の養女を妻に迎えると、1600年、五大老の一人、上杉景勝を討伐すべく会津攻めへの従軍を志願する。ところが、あろうことか、家康に肥後での謹慎を命じられてしまう。その結果、清正は関ヶ原の戦いに参加することもできなかった。清正はなぜ、家康に従軍することを拒否されてしまったのか? 関ヶ原の戦いの後、清正は肥後南半国の領主で西軍に加わった小西行長の居城を攻めるなど、東軍に貢献し、肥後一国52万石の大大名となる。家康が江戸に幕府を開いた8年後、清正は京都・二条城で開かれる、家康と豊臣秀頼の歴史的会見に徳川家臣として同席。その帰路、突然の病に侵され、50歳で生涯を閉じた。二人の天下人に仕え、地元・熊本の人々を中心に「清正公さん」と呼ばれ、慕われている清正の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第94回「前田利家・明暗を分けた五大老の選択」

加賀百万石の礎を築いた名将・前田利家の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1538年、尾張荒子城主・前田利春の四男として生まれた利家は14歳で織田信長の小姓となるが、同僚を殺害し、織田家を追放されてしまう。帰参後、前田家の家督を継ぐと、能登一国を拝領。本能寺の変で信長が横死すると、柴田勝家に味方するが、賤ヶ岳の戦いの最中、羽柴秀吉方に転じ、以後、秀吉の天下統一事業を支えていく。 やがて、豊臣政権の五大老に任命され、後継者・豊臣秀頼の傅役も任される。ところが、同じく五大老の家康が秀吉の遺言を無視し、天下への野心を露わにすると、利家は家康の暴走を抑えるべく、決死の覚悟で直接会談に臨む。この時、家康の巧みな立ち回りもあり、両者は和解。しかし、これが結果的に家康を天下人に押し上げることになってしまう。利家はなぜ、秀吉の遺言を破った家康を処断しなかったのか? 利家の死後、秀頼の傅役は嫡男・前田利長が受け継ぐが、やがて、家康暗殺の噂が立ち、利長が首謀者と見なされてしまう。利長は弁明のため奔走、母・まつを人質に出すことで、ようやく家康の許しを得た。前田家を屈服させた家康は同じく五大老の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、会津へと進軍。その流れの中で起きた関ヶ原の戦いに勝利し、天下の実権を握ることに。一方、家康に屈した前田家はその後、どんな道のりを歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
加賀百万石の礎を築いた名将・前田利家の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1538年、尾張荒子城主・前田利春の四男として生まれた利家は14歳で織田信長の小姓となるが、同僚を殺害し、織田家を追放されてしまう。帰参後、前田家の家督を継ぐと、能登一国を拝領。本能寺の変で信長が横死すると、柴田勝家に味方するが、賤ヶ岳の戦いの最中、羽柴秀吉方に転じ、以後、秀吉の天下統一事業を支えていく。 やがて、豊臣政権の五大老に任命され、後継者・豊臣秀頼の傅役も任される。ところが、同じく五大老の家康が秀吉の遺言を無視し、天下への野心を露わにすると、利家は家康の暴走を抑えるべく、決死の覚悟で直接会談に臨む。この時、家康の巧みな立ち回りもあり、両者は和解。しかし、これが結果的に家康を天下人に押し上げることになってしまう。利家はなぜ、秀吉の遺言を破った家康を処断しなかったのか? 利家の死後、秀頼の傅役は嫡男・前田利長が受け継ぐが、やがて、家康暗殺の噂が立ち、利長が首謀者と見なされてしまう。利長は弁明のため奔走、母・まつを人質に出すことで、ようやく家康の許しを得た。前田家を屈服させた家康は同じく五大老の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、会津へと進軍。その流れの中で起きた関ヶ原の戦いに勝利し、天下の実権を握ることに。一方、家康に屈した前田家はその後、どんな道のりを歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第93回「大久保利通・命を奪われた明治新政府のリーダー」

明治新政府のリーダーとして日本の近代化に尽力した大久保利通の敗北から現代に通じる教訓を探る。1830年、薩摩藩士の家に生まれた大久保は幼い頃に西郷と知り合い、17歳で薩摩藩に出仕。やがて、中央政治に不安を感じ、朝廷と幕府が協力し、政権の強化を図る公武合体を目指し、奔走する。1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、大久保は倒幕派の公家・岩倉具視らと共に王政復古のクーデターを実行した。 明治新政府の主導者の一人となった大久保は版籍奉還、廃藩置県などを断行し、中央集権体制を確立。欧米諸国を歴訪し、殖産興業こそが富国強兵への道と確信するが、帰国後、西郷らと対立。明治政府に不満を持つ不平士族による反乱が相次ぐと、これらを次々と鎮圧した。さらに西郷が西南戦争を起こすと、彼を自刃に追いやってしまう。大久保が暗殺されたのはその8カ月後のことだった。大久保はなぜ、命を縮めてしまったのか? かつて、福島県郡山市の周辺には広大な荒れ地が広がっていた。大久保はそこに目を付け、開墾事業を計画した。不毛の大地に豊かな実りをもたらし、殖産興業を推進、全国の旧士族をその仕事に従事させ、救済しようと考えたのだ。延べ85万人の労力により、安積疎水が開通したのは大久保の死から4年後のことだった。もし、大久保があの時、凶刃に倒れなければ、日本の未来はどうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
明治新政府のリーダーとして日本の近代化に尽力した大久保利通の敗北から現代に通じる教訓を探る。1830年、薩摩藩士の家に生まれた大久保は幼い頃に西郷と知り合い、17歳で薩摩藩に出仕。やがて、中央政治に不安を感じ、朝廷と幕府が協力し、政権の強化を図る公武合体を目指し、奔走する。1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、大久保は倒幕派の公家・岩倉具視らと共に王政復古のクーデターを実行した。 明治新政府の主導者の一人となった大久保は版籍奉還、廃藩置県などを断行し、中央集権体制を確立。欧米諸国を歴訪し、殖産興業こそが富国強兵への道と確信するが、帰国後、西郷らと対立。明治政府に不満を持つ不平士族による反乱が相次ぐと、これらを次々と鎮圧した。さらに西郷が西南戦争を起こすと、彼を自刃に追いやってしまう。大久保が暗殺されたのはその8カ月後のことだった。大久保はなぜ、命を縮めてしまったのか? かつて、福島県郡山市の周辺には広大な荒れ地が広がっていた。大久保はそこに目を付け、開墾事業を計画した。不毛の大地に豊かな実りをもたらし、殖産興業を推進、全国の旧士族をその仕事に従事させ、救済しようと考えたのだ。延べ85万人の労力により、安積疎水が開通したのは大久保の死から4年後のことだった。もし、大久保があの時、凶刃に倒れなければ、日本の未来はどうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第92回「江藤新平・司法制度の父が起こした佐賀の乱」

明治初期に日本の司法制度を整備した江藤新平の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1834年、佐賀藩の下級武士の家に生まれた江藤は藩校・弘道館で大隈重信らに出会い、国家を論じる。江戸幕府が倒れ、明治新政府の一員となった江藤は四民平等を目指して奔走。司法省を設立し、司法卿に就任すると、全国に裁判所を設置し、検事や判事などの職務を定め、誰もが公平な裁きを受けられるよう、司法制度を構築した。 ところが、1873年、征韓論をめぐり、政権の中枢にいた大久保利通らと対立。江藤は政府を去り、日本初の政治政党を立ち上げる。そんな江藤を政府は危険人物と見なし、佐賀に鎮圧部隊を派遣。江藤は佐賀の乱を起こして戦うが、政府軍の圧倒的な戦力に敵わず、敗北。刑場の露と消えてしまう。江藤は明晰な頭脳を持ちながら、なぜ、佐賀の乱の首謀者となり、政府と戦うことになってしまったのか? 志半ばでこの世を去った江藤に対し、同郷の士・大隈重信はこんな言葉を残している。「江藤を失った国家は更に甚大なる損害であり、不幸であった」。1916年、江藤は明治政府時代に与えられていた正四位を追贈され、ようやく名誉回復を果たす。そこに尽力したのは、時の内閣総理大臣・大隈重信であった。佐賀市内の公園には郷土の偉人として、江藤の像が建てられている。今日に連綿と受け継がれている佐賀の人々の思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
明治初期に日本の司法制度を整備した江藤新平の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1834年、佐賀藩の下級武士の家に生まれた江藤は藩校・弘道館で大隈重信らに出会い、国家を論じる。江戸幕府が倒れ、明治新政府の一員となった江藤は四民平等を目指して奔走。司法省を設立し、司法卿に就任すると、全国に裁判所を設置し、検事や判事などの職務を定め、誰もが公平な裁きを受けられるよう、司法制度を構築した。 ところが、1873年、征韓論をめぐり、政権の中枢にいた大久保利通らと対立。江藤は政府を去り、日本初の政治政党を立ち上げる。そんな江藤を政府は危険人物と見なし、佐賀に鎮圧部隊を派遣。江藤は佐賀の乱を起こして戦うが、政府軍の圧倒的な戦力に敵わず、敗北。刑場の露と消えてしまう。江藤は明晰な頭脳を持ちながら、なぜ、佐賀の乱の首謀者となり、政府と戦うことになってしまったのか? 志半ばでこの世を去った江藤に対し、同郷の士・大隈重信はこんな言葉を残している。「江藤を失った国家は更に甚大なる損害であり、不幸であった」。1916年、江藤は明治政府時代に与えられていた正四位を追贈され、ようやく名誉回復を果たす。そこに尽力したのは、時の内閣総理大臣・大隈重信であった。佐賀市内の公園には郷土の偉人として、江藤の像が建てられている。今日に連綿と受け継がれている佐賀の人々の思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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