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第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」

偉人・敗北からの教訓

第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」

レンタル期間:7日間

あらすじ

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。

1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?

大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?

エピソード

第59回「細川ガラシャ・キリスト教に殉じた謀叛人の娘」

戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。 その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか? ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。 その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか? ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

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第58回「大谷吉継・関ヶ原に散った智将の野望と真実」

病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。 さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか? 吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。 さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか? 吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

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第57回「清少納言・涙で綴った『枕草子』」

日本初の随筆と言われる『枕草子』の著者・清少納言の敗北から明日を生きるための教訓を探る。966年、和歌の名手・清原元輔の娘として、平安京に生まれたとされる清少納言は漢文や和歌の知識を買われ、一条天皇の后・藤原定子に仕えると、やがて、宮廷サロンの中心人物に躍り出る。ところが、定子の父である関白・藤原道隆が急死、さらに定子の兄と弟が失脚すると、俄かに雲行きが怪しくなる。 新たに政治の主導権を握ったのは道隆の弟・藤原道長だった。同僚らに道長との関係を疑われた清少納言は宮廷を去って引きこもる。その後、定子の計らいで清少納言は宮廷に戻り、懸命に定子を支えるが、定子は一条天皇の後継者候補となる初の男子を出産した直後に急逝、清少納言は失意の中で宮廷を後にする。清少納言はなぜ、敬愛する定子を守りきることができなかったのか?そして『枕草子』に込められたメッセージとは? 定子の死後、清少納言はしばし憔悴していたが、やがて再び筆を執る。書きかけだった『枕草子』の続きを書き始めたのだ。そこには、清少納言が定子たちと共に作り上げた華やかな文化と営みが鮮明に描き出された。清少納言は見たこと、感じたことをありのままに綴る随筆という新たな分野を開拓、その手法は多くの文人に影響を与え、今日に引き継がれている。もし、清少納言が現代に生きていたら、どんな文章を綴っていたのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

日本初の随筆と言われる『枕草子』の著者・清少納言の敗北から明日を生きるための教訓を探る。966年、和歌の名手・清原元輔の娘として、平安京に生まれたとされる清少納言は漢文や和歌の知識を買われ、一条天皇の后・藤原定子に仕えると、やがて、宮廷サロンの中心人物に躍り出る。ところが、定子の父である関白・藤原道隆が急死、さらに定子の兄と弟が失脚すると、俄かに雲行きが怪しくなる。 新たに政治の主導権を握ったのは道隆の弟・藤原道長だった。同僚らに道長との関係を疑われた清少納言は宮廷を去って引きこもる。その後、定子の計らいで清少納言は宮廷に戻り、懸命に定子を支えるが、定子は一条天皇の後継者候補となる初の男子を出産した直後に急逝、清少納言は失意の中で宮廷を後にする。清少納言はなぜ、敬愛する定子を守りきることができなかったのか?そして『枕草子』に込められたメッセージとは? 定子の死後、清少納言はしばし憔悴していたが、やがて再び筆を執る。書きかけだった『枕草子』の続きを書き始めたのだ。そこには、清少納言が定子たちと共に作り上げた華やかな文化と営みが鮮明に描き出された。清少納言は見たこと、感じたことをありのままに綴る随筆という新たな分野を開拓、その手法は多くの文人に影響を与え、今日に引き継がれている。もし、清少納言が現代に生きていたら、どんな文章を綴っていたのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

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第56回「藤原道長と頼通 摂関政治の盛衰」

飛鳥時代から400年以上にわたり、日本の政治の中心にいた藤原一族の敗北から現代に通じる教訓を探る。藤原氏は645年に蘇我氏を滅ぼした大化の改新の功労者、中臣鎌足が天智天皇に藤原姓を賜ったことに由来する。平安時代、藤原氏は一族が摂政、関白職を世襲し、政治の実権を独占し続ける政治体制、摂関政治を確立。その最盛期を導いた道長は3人の娘を次々と天皇に入内させ、藤原氏の権力を絶対的なものにした。 道長の嫡男・頼通は父にならい、摂関政治を継承し、更なる発展を目指す。結果、50年もの長きにわたり、摂政、関白として君臨し、政治を主導し続けた。ところが、この頼通の時代を最後に摂関政治は衰退し、天皇が自ら政治を主導する親政の時代が復活する。この世に並び立つものがないほどの栄華を極めた藤原氏。その全盛期はなぜ、あっけなく終焉を迎えてしまったのか? 白河天皇の時代に関白となった師実は天皇との協調路線をとったこともあり、以後、摂関家は道長・頼通の直系に継承される。一族最大の危機が訪れたのは頼通の玄孫の時代。忠通と頼長の兄弟が摂関の地位をめぐって対立し、やがて、保元の乱が勃発。さらに平治の乱を経て、武家政権が誕生すると、摂関家は5つの家に分かれ、幕末まで公家社会の中での影響力を保つ。藤原氏がこの国にもたらしたものとは?■出演進行:中西悠理(キャスター)解説:伊東潤(歴史作家)

飛鳥時代から400年以上にわたり、日本の政治の中心にいた藤原一族の敗北から現代に通じる教訓を探る。藤原氏は645年に蘇我氏を滅ぼした大化の改新の功労者、中臣鎌足が天智天皇に藤原姓を賜ったことに由来する。平安時代、藤原氏は一族が摂政、関白職を世襲し、政治の実権を独占し続ける政治体制、摂関政治を確立。その最盛期を導いた道長は3人の娘を次々と天皇に入内させ、藤原氏の権力を絶対的なものにした。 道長の嫡男・頼通は父にならい、摂関政治を継承し、更なる発展を目指す。結果、50年もの長きにわたり、摂政、関白として君臨し、政治を主導し続けた。ところが、この頼通の時代を最後に摂関政治は衰退し、天皇が自ら政治を主導する親政の時代が復活する。この世に並び立つものがないほどの栄華を極めた藤原氏。その全盛期はなぜ、あっけなく終焉を迎えてしまったのか? 白河天皇の時代に関白となった師実は天皇との協調路線をとったこともあり、以後、摂関家は道長・頼通の直系に継承される。一族最大の危機が訪れたのは頼通の玄孫の時代。忠通と頼長の兄弟が摂関の地位をめぐって対立し、やがて、保元の乱が勃発。さらに平治の乱を経て、武家政権が誕生すると、摂関家は5つの家に分かれ、幕末まで公家社会の中での影響力を保つ。藤原氏がこの国にもたらしたものとは?■出演進行:中西悠理(キャスター)解説:伊東潤(歴史作家)

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第55回「平将門・関東の独立を図った過激な反乱」

菅原道真、崇徳天皇と共に日本三大怨霊として恐れられ、また、祭神としても崇められる平将門の敗北から現代に通じる教訓を探る。平安時代中期、桓武平氏の一族として関東に生まれた将門は10代半ばで都に上り、天皇を警護する滝口武者となり、平安貴族の実力者・藤原忠平に仕える。しかし、父の死を受け、やむなく帰郷。その後、伯父をはじめとする一族の争いを制した将門は、関東一円にその武名を轟かせる。 さらに将門は関東の諸豪族の争いに身を投じ、各地の国司と戦うことに。これが朝廷への反乱と見なされる。やがて、関東の大半を制圧した将門は自らを新しい天皇、新皇と称し、関東に独立国家を打ち立てようとした。朝廷はこれに激怒し、将門追討の命を出す。将門はわずかな手勢を率い、一時は戦いを優位に進めるが、敢え無い最期を遂げてしまう。将門はなぜ、前代未聞の反乱を起こし、討死せざるを得なかったのか? 平将門の乱から200年以上が経った後、武家政権を樹立したのは、将門と戦い、勝利した者たちの子孫だった。朝廷に反旗を翻した将門は、その後、怨霊となり、人々に恐れられたと伝わっている。しかし、一方で信仰の対象にもなった。関東の地に幕府を開いた源頼朝、徳川家康らの崇敬を受けた将門は、神田明神の祭神として祀られ、今も多くの人々に崇められている。もし、将門が討死しなかったら、歴史はどう動いたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

菅原道真、崇徳天皇と共に日本三大怨霊として恐れられ、また、祭神としても崇められる平将門の敗北から現代に通じる教訓を探る。平安時代中期、桓武平氏の一族として関東に生まれた将門は10代半ばで都に上り、天皇を警護する滝口武者となり、平安貴族の実力者・藤原忠平に仕える。しかし、父の死を受け、やむなく帰郷。その後、伯父をはじめとする一族の争いを制した将門は、関東一円にその武名を轟かせる。 さらに将門は関東の諸豪族の争いに身を投じ、各地の国司と戦うことに。これが朝廷への反乱と見なされる。やがて、関東の大半を制圧した将門は自らを新しい天皇、新皇と称し、関東に独立国家を打ち立てようとした。朝廷はこれに激怒し、将門追討の命を出す。将門はわずかな手勢を率い、一時は戦いを優位に進めるが、敢え無い最期を遂げてしまう。将門はなぜ、前代未聞の反乱を起こし、討死せざるを得なかったのか? 平将門の乱から200年以上が経った後、武家政権を樹立したのは、将門と戦い、勝利した者たちの子孫だった。朝廷に反旗を翻した将門は、その後、怨霊となり、人々に恐れられたと伝わっている。しかし、一方で信仰の対象にもなった。関東の地に幕府を開いた源頼朝、徳川家康らの崇敬を受けた将門は、神田明神の祭神として祀られ、今も多くの人々に崇められている。もし、将門が討死しなかったら、歴史はどう動いたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)

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第54回「近衛前久・公家の復権を夢見た戦国の関白」

第54回「近衛前久・公家の復権を夢見た戦国の関白」

自らの意志で戦国の最前線に飛び込んだ関白・近衛前久の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1536年、藤原五摂家の筆頭・近衛家の嫡男として生まれた前久は19歳の若さで関白に就任、室町幕府の再興と公家の復権を目指し、奔走する。最初に目を付けたのは上杉謙信。前久は謙信の関東平定、上洛作戦を支援すべく、現役関白でありながら東国に下向するという前代未聞の行動に出るが、作戦は失敗に終わる。その後、足利義昭と対立し、京都を追われ、関白の座も剥奪される。流浪の日々の中、前久が出会ったのが圧倒的な軍事力を有する織田信長だった。前久は信長の天下統一事業に協力し、存在感を発揮する。ところが、1582年、本能寺の変が勃発、信長が横死したことで前久の運命も定まってしまう。前久はなぜ、室町幕府の再興と公家社会の復権という夢を叶えることができなかったのか?信長の後継者となった豊臣秀吉が望んだのは、なんと関白の地位だった。しかし、関白は藤原五摂家から任命される役職。農民出身の秀吉がその座に就くことはできない。そこで秀吉は、前久に自分を猶子にするよう強く求めた。前久はその要求を断ることができず、秀吉は前久の猶子となり、武士として初めて関白に就任、やがて、天下統一を達成する。もし、前久が関白兼征夷大将軍になっていたら、歴史はどう動いたのか?

自らの意志で戦国の最前線に飛び込んだ関白・近衛前久の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1536年、藤原五摂家の筆頭・近衛家の嫡男として生まれた前久は19歳の若さで関白に就任、室町幕府の再興と公家の復権を目指し、奔走する。最初に目を付けたのは上杉謙信。前久は謙信の関東平定、上洛作戦を支援すべく、現役関白でありながら東国に下向するという前代未聞の行動に出るが、作戦は失敗に終わる。その後、足利義昭と対立し、京都を追われ、関白の座も剥奪される。流浪の日々の中、前久が出会ったのが圧倒的な軍事力を有する織田信長だった。前久は信長の天下統一事業に協力し、存在感を発揮する。ところが、1582年、本能寺の変が勃発、信長が横死したことで前久の運命も定まってしまう。前久はなぜ、室町幕府の再興と公家社会の復権という夢を叶えることができなかったのか?信長の後継者となった豊臣秀吉が望んだのは、なんと関白の地位だった。しかし、関白は藤原五摂家から任命される役職。農民出身の秀吉がその座に就くことはできない。そこで秀吉は、前久に自分を猶子にするよう強く求めた。前久はその要求を断ることができず、秀吉は前久の猶子となり、武士として初めて関白に就任、やがて、天下統一を達成する。もし、前久が関白兼征夷大将軍になっていたら、歴史はどう動いたのか?

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第53回「前田慶次・出奔を選んだ天下御免の傾奇者」

第53回「前田慶次・出奔を選んだ天下御免の傾奇者」

天下御免の傾奇者・前田慶次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。織田家の武将・滝川一益の一族として尾張国で生まれたとされる慶次は、上杉景勝の家臣・直江兼続と意気投合し、自らも景勝に仕えると、1600年、「北の関ケ原」と呼ばれる長谷堂城の戦いに参加。兼続と共に苛烈な撤退戦で上杉の大軍を会津まで引き返させるなど、武名を挙げるが、関ヶ原本戦での西軍の敗北により、不遇の晩年を過ごすことになる。そもそも慶次は、尾張前田家の家督を継げず、流浪の日々を過ごした後、叔父・前田利家に仕え、阿尾城の城代を務めるまでになっていた。ところが、1590年頃、突如、前田家を出奔してしまう。そして、その後の放浪生活の中で兼続と出会い、上杉家臣として生きることになるが、結果、負け組の人生を歩むことに。慶次は人生の選択を誤ったとも言える。なぜ、慶次は前田家を出奔すると決断したのか?山形県米沢市にある堂森善光寺の境内に慶次の供養塔が建っている。その碑文によると、慶次は1612年にこの地で没したと伝えられている。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬだけ。乱世を自由奔放に生きた慶次は、最晩年、無心の境地に達していたと言われている。もし、慶次が出奔することなく、前田家の家督を継ぎ、豊臣秀吉の家臣になっていたら、どんな人生を歩んでいたのか?

天下御免の傾奇者・前田慶次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。織田家の武将・滝川一益の一族として尾張国で生まれたとされる慶次は、上杉景勝の家臣・直江兼続と意気投合し、自らも景勝に仕えると、1600年、「北の関ケ原」と呼ばれる長谷堂城の戦いに参加。兼続と共に苛烈な撤退戦で上杉の大軍を会津まで引き返させるなど、武名を挙げるが、関ヶ原本戦での西軍の敗北により、不遇の晩年を過ごすことになる。そもそも慶次は、尾張前田家の家督を継げず、流浪の日々を過ごした後、叔父・前田利家に仕え、阿尾城の城代を務めるまでになっていた。ところが、1590年頃、突如、前田家を出奔してしまう。そして、その後の放浪生活の中で兼続と出会い、上杉家臣として生きることになるが、結果、負け組の人生を歩むことに。慶次は人生の選択を誤ったとも言える。なぜ、慶次は前田家を出奔すると決断したのか?山形県米沢市にある堂森善光寺の境内に慶次の供養塔が建っている。その碑文によると、慶次は1612年にこの地で没したと伝えられている。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬだけ。乱世を自由奔放に生きた慶次は、最晩年、無心の境地に達していたと言われている。もし、慶次が出奔することなく、前田家の家督を継ぎ、豊臣秀吉の家臣になっていたら、どんな人生を歩んでいたのか?

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第52回「聖徳太子・アジアの超大国との外交交渉」

第52回「聖徳太子・アジアの超大国との外交交渉」

紙幣の肖像に史上最多の7回採用された聖徳太子の敗北から明日を生きるための教訓を探る。幼い頃から聡明だった聖徳太子は叔母である推古天皇の摂政として国政に参加。冠位十二階を導入し、身分ではなく能力での出世を可能にすると、さらに憲法十七条を制定し、官僚や豪族に対する行動規範を明示した。国家の安定と平和を望んだ聖徳太子は当時の最新文化であった仏教の普及に尽力し、法隆寺をはじめ、多くの寺院を建立した。聖徳太子は外交も重視し、アジアの大国・隋に使節を送り、良好な関係を築こうとした。しかし、隋の皇帝は送られた国書に綴られた「日出ずる国の天子...」から始まる一文を一読するや否や激怒してしまう。さらに隋の皇帝が送った返書をめぐり、大騒動が巻き起こる。それは聖徳太子のみならず、日本という国家の敗北であった。最新研究により、明らかになりつつある古代日本の姿。大国・隋との外交交渉の裏に隠された真実とは?聖徳太子が派遣した遣隋使により、東アジアにおける日本の地位は向上し、また、日本の政治のあり方も大きく変わった。聖徳太子の信念は1400年の時を越え、今日の日本にも受け継がれているという。果たして、その精神とは?用明天皇の子として生まれながら、天皇として即位することはなく、622年にこの世を去った聖徳太子。もし、聖徳太子が天皇になっていたら、日本の歴史はどんな展開を見せていたのか?

紙幣の肖像に史上最多の7回採用された聖徳太子の敗北から明日を生きるための教訓を探る。幼い頃から聡明だった聖徳太子は叔母である推古天皇の摂政として国政に参加。冠位十二階を導入し、身分ではなく能力での出世を可能にすると、さらに憲法十七条を制定し、官僚や豪族に対する行動規範を明示した。国家の安定と平和を望んだ聖徳太子は当時の最新文化であった仏教の普及に尽力し、法隆寺をはじめ、多くの寺院を建立した。聖徳太子は外交も重視し、アジアの大国・隋に使節を送り、良好な関係を築こうとした。しかし、隋の皇帝は送られた国書に綴られた「日出ずる国の天子...」から始まる一文を一読するや否や激怒してしまう。さらに隋の皇帝が送った返書をめぐり、大騒動が巻き起こる。それは聖徳太子のみならず、日本という国家の敗北であった。最新研究により、明らかになりつつある古代日本の姿。大国・隋との外交交渉の裏に隠された真実とは?聖徳太子が派遣した遣隋使により、東アジアにおける日本の地位は向上し、また、日本の政治のあり方も大きく変わった。聖徳太子の信念は1400年の時を越え、今日の日本にも受け継がれているという。果たして、その精神とは?用明天皇の子として生まれながら、天皇として即位することはなく、622年にこの世を去った聖徳太子。もし、聖徳太子が天皇になっていたら、日本の歴史はどんな展開を見せていたのか?

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第51回「渋沢栄一・挫折だらけの実業界の父」

第51回「渋沢栄一・挫折だらけの実業界の父」

「日本資本主義の父」と称えられ、新一万円札の肖像となった渋沢栄一の敗北から現代に通じる教訓を探る。武蔵国の農家に生まれた栄一の青年期は挫折、失敗の連続だった。倒幕を志すも未遂に終わり、一橋家に仕えるが、主君・慶喜が十五代将軍に就任したことで、意に反し、幕臣になってしまう。その後、ヨーロッパで経済の仕組みを学んだ栄一は明治新政府の役人となり、様々な改革に取り組むが、首脳陣と対立し、辞職する。栄一は日本初の銀行をはじめ、ガスや電力、鉄道など、日本の近代化を推進する事業の礎を築くが、全てが順風満帆に行ったわけではない。中でも、洋紙を製造する抄紙会社を設立した際には予期せぬ困難に見舞われる。そもそも、栄一は国から紙幣の製造を依頼され、会社を創ったにもかかわらず、その後、約束を反故にされてしまったのだ。栄一はいかにして、その苦難を乗り越え、事業を成功に導いたのか?日本の近代化、国家の繁栄を支えるべく、500近い企業や団体の設立、支援に関わった栄一。その根底には栄一特有の強い信念があった。道徳と経済は決して相反するものでなく、両立すべきものである。仁義道徳を重んじた栄一は、実業界のみならず、教育、福祉、外交など、幅広い社会貢献活動に尽力し、92歳の天寿を全うした。もし、栄一が実業家ではなく、政治家として明治政府に参加していたら、どんな展開になっていたのか?

「日本資本主義の父」と称えられ、新一万円札の肖像となった渋沢栄一の敗北から現代に通じる教訓を探る。武蔵国の農家に生まれた栄一の青年期は挫折、失敗の連続だった。倒幕を志すも未遂に終わり、一橋家に仕えるが、主君・慶喜が十五代将軍に就任したことで、意に反し、幕臣になってしまう。その後、ヨーロッパで経済の仕組みを学んだ栄一は明治新政府の役人となり、様々な改革に取り組むが、首脳陣と対立し、辞職する。栄一は日本初の銀行をはじめ、ガスや電力、鉄道など、日本の近代化を推進する事業の礎を築くが、全てが順風満帆に行ったわけではない。中でも、洋紙を製造する抄紙会社を設立した際には予期せぬ困難に見舞われる。そもそも、栄一は国から紙幣の製造を依頼され、会社を創ったにもかかわらず、その後、約束を反故にされてしまったのだ。栄一はいかにして、その苦難を乗り越え、事業を成功に導いたのか?日本の近代化、国家の繁栄を支えるべく、500近い企業や団体の設立、支援に関わった栄一。その根底には栄一特有の強い信念があった。道徳と経済は決して相反するものでなく、両立すべきものである。仁義道徳を重んじた栄一は、実業界のみならず、教育、福祉、外交など、幅広い社会貢献活動に尽力し、92歳の天寿を全うした。もし、栄一が実業家ではなく、政治家として明治政府に参加していたら、どんな展開になっていたのか?

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第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」

第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?

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