偉人・敗北からの教訓

第37回「上杉景勝・北の関ヶ原での撤退戦」

レンタル期間:7日間

あらすじ

「苦渋の決断を余儀なくされた撤退戦!」今回は軍神・上杉謙信の後継者、上杉景勝の敗北を紐解き、明日を生きるための教訓を探る。謙信の甥として生まれた景勝は、謙信の養子となったことで、戦乱の渦に巻き込まれていく。謙信没後、同じく謙信の養子だった上杉景虎との家督争いに勝利。その後、秀吉に臣従した景勝は豊臣政権の五大老の一人となり、会津120万石の大大名にのし上がった。しかし、秀吉の死後、突如、暗雲が立ち込める。天下を狙う徳川家康に謀叛の疑いをかけられたのだ。これに真っ向から反論した景勝は東北の地で、徳川方に付く最上義光と激突する。いわゆる、北の関ヶ原である。序盤、上杉軍は戦を優位に進めるが、関ヶ原での西軍の敗戦を聞き、撤退。これにより、景勝は米沢30万石に減封されてしまう。景勝が撤退を決断した理由とは?景勝が武人として最後の活躍を見せたのが大坂の陣。徳川方に付いた景勝は、独特の采配で豊臣方を総崩れに追い込む。それは、家康が激賞するほどのものだった!そして、豊臣家の滅亡から8年後、波乱に満ちたその生涯に静かに幕を降ろすのであった。

エピソード

第85回「松平定信・度が過ぎた寛政の改革」

江戸時代、田沼意次の後を受け、世直しに邁進した老中・松平定信の敗北から現代に通じる教訓を探る。1758年、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武の七男として江戸に生まれた定信は幼い頃から聡明で田安家を継ぐことを期待されていたが、白河藩主・松平定邦の養子に出され、白河藩主として天明の大飢饉に直面した領民の救済に力を尽くす。定信自ら質素倹約に努めた結果、白河藩は餓死者を出すことなく、この危機を乗り切る。 政治手腕を高く評価された定信は老中・田沼意次が失脚した翌年、30歳という異例の若さで十一代将軍・徳川家斉を補佐する老中首座に抜擢された。腐敗した政治の一掃を目指す定信は、敬愛する祖父・吉宗が手掛けた享保の改革にならい、政治、経済、文化など様々な分野で改革を推進する。ところが、意気揚々と社会の改善に取り組む中、突如、老中の職を解かれてしまう。定信はなぜ、幕府から追放されてしまったのか? 白河藩に戻った定信は、不作により困窮する民を救うため、灌漑用の溜池を持つ南湖公園を造らせた。ここは身分を問わず誰もが気軽に訪問できる憩いの園となる。さらに定信は失われてしまいがちな古美術品を絵に残し、後世に伝える文化保護活動に取り組み、浮世絵師・鍬形蕙斎に江戸庶民がいきいきと暮らす様子を描かせるなど、文化の発展にも力を尽くした。定信が真に欲していたものとは何だったのか? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
江戸時代、田沼意次の後を受け、世直しに邁進した老中・松平定信の敗北から現代に通じる教訓を探る。1758年、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武の七男として江戸に生まれた定信は幼い頃から聡明で田安家を継ぐことを期待されていたが、白河藩主・松平定邦の養子に出され、白河藩主として天明の大飢饉に直面した領民の救済に力を尽くす。定信自ら質素倹約に努めた結果、白河藩は餓死者を出すことなく、この危機を乗り切る。 政治手腕を高く評価された定信は老中・田沼意次が失脚した翌年、30歳という異例の若さで十一代将軍・徳川家斉を補佐する老中首座に抜擢された。腐敗した政治の一掃を目指す定信は、敬愛する祖父・吉宗が手掛けた享保の改革にならい、政治、経済、文化など様々な分野で改革を推進する。ところが、意気揚々と社会の改善に取り組む中、突如、老中の職を解かれてしまう。定信はなぜ、幕府から追放されてしまったのか? 白河藩に戻った定信は、不作により困窮する民を救うため、灌漑用の溜池を持つ南湖公園を造らせた。ここは身分を問わず誰もが気軽に訪問できる憩いの園となる。さらに定信は失われてしまいがちな古美術品を絵に残し、後世に伝える文化保護活動に取り組み、浮世絵師・鍬形蕙斎に江戸庶民がいきいきと暮らす様子を描かせるなど、文化の発展にも力を尽くした。定信が真に欲していたものとは何だったのか? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
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第84回「田沼意次・商業重視の経済政策の果て」

商業を活性化させる一方、賄賂政治を行った老中・田沼意次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1719年、旗本・田沼意行の子として江戸に生まれた意次は九代将軍・徳川家重の御側御用取次として幕政に関わりながら頭角を現す。十代将軍・徳川家治の時代に老中となった意次は重商主義を打ち出し、商人による株仲間を容認、営業の独占権を認める代わりに税を取るなど、年貢米以外にも幕府の財源を獲得した。 さらに南鐐二朱銀を流通させ、全国の貨幣を統一するなど、経済手腕を発揮し、繁栄の時代をもたらした。ところが、天明の大飢饉が発生すると、意次への風当たりが強くなる。そして翌年、意次の長男で若年寄を務める田沼意知が殺害されてしまう。さらに1786年には、最大の理解者であった将軍・家治が亡くなり、孤立した意次は老中の辞職を余儀なくされた。幕政を立て直した意次はなぜ、幕府を追われてしまったのか? 田沼政権崩壊の一因となったのが将軍暗殺というフェイクニュースまで生むことになった、庶民の怒りの感情であった。1787年、意次の孫・田沼意明が家督を継ぐと、田沼家は陸奥下村に転封され、意次が遠江に築いた相良城は破却されてしまう。それを病床で耳にした意次は1788年、70歳でひっそりとその人生に幕を下ろした。死を目前にした意次の思い、そして、家族に残した遺言とは? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
商業を活性化させる一方、賄賂政治を行った老中・田沼意次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1719年、旗本・田沼意行の子として江戸に生まれた意次は九代将軍・徳川家重の御側御用取次として幕政に関わりながら頭角を現す。十代将軍・徳川家治の時代に老中となった意次は重商主義を打ち出し、商人による株仲間を容認、営業の独占権を認める代わりに税を取るなど、年貢米以外にも幕府の財源を獲得した。 さらに南鐐二朱銀を流通させ、全国の貨幣を統一するなど、経済手腕を発揮し、繁栄の時代をもたらした。ところが、天明の大飢饉が発生すると、意次への風当たりが強くなる。そして翌年、意次の長男で若年寄を務める田沼意知が殺害されてしまう。さらに1786年には、最大の理解者であった将軍・家治が亡くなり、孤立した意次は老中の辞職を余儀なくされた。幕政を立て直した意次はなぜ、幕府を追われてしまったのか? 田沼政権崩壊の一因となったのが将軍暗殺というフェイクニュースまで生むことになった、庶民の怒りの感情であった。1787年、意次の孫・田沼意明が家督を継ぐと、田沼家は陸奥下村に転封され、意次が遠江に築いた相良城は破却されてしまう。それを病床で耳にした意次は1788年、70歳でひっそりとその人生に幕を下ろした。死を目前にした意次の思い、そして、家族に残した遺言とは? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
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第83回「黒田官兵衛・名軍師の糧となった若き日の失敗」

竹中半兵衛と共に「両兵衛」と称される黒田官兵衛の敗北から現代に通じる教訓を探る。1546年、姫路城代を務める黒田職隆の嫡男として播磨国に生まれた官兵衛は22歳で家督を継ぎ、父から主君・小寺政職の家老職も譲り受ける。そして、当時の情勢を冷静に分析し、小寺家を織田信長の配下に組み入れる。その後、信長の命により秀吉が中国攻めの指揮を執ると、官兵衛はこれに従軍し、戦いの渦に身を投じる。 しかし、若き官兵衛は命を落としかねない危機にも遭遇してしまう。1578年、信長から摂津国の統治を任されていた荒木村重が謀反を起こし、有岡城に籠城すると、官兵衛は村重を翻意させるべく、単身、城内に乗り込んだ。ところが、官兵衛は逆に村重に捕らえられ、一年近くもの長きにわたり、身柄を拘束されてしまう。官兵衛はなぜ囚われの身となってしまったのか?そして、官兵衛が監禁生活から学んだこととは? 官兵衛が一向に戻って来ないことに業を煮やした信長は人質にとっていた官兵衛の嫡男・長政を殺害するよう、秀吉に命じた。村重は1年近く籠城を続けるが、兵量の底が見え、毛利の援軍も来ないため、有岡城を脱出。すると、信長が有岡城に総攻撃を仕掛け、官兵衛はようやく自由の身となった。そこで官兵衛は初めて、長政が無事でいることを知る。その裏には、秀吉のもとで軍師として共に戦った盟友・竹中半兵衛の英断があった! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
竹中半兵衛と共に「両兵衛」と称される黒田官兵衛の敗北から現代に通じる教訓を探る。1546年、姫路城代を務める黒田職隆の嫡男として播磨国に生まれた官兵衛は22歳で家督を継ぎ、父から主君・小寺政職の家老職も譲り受ける。そして、当時の情勢を冷静に分析し、小寺家を織田信長の配下に組み入れる。その後、信長の命により秀吉が中国攻めの指揮を執ると、官兵衛はこれに従軍し、戦いの渦に身を投じる。 しかし、若き官兵衛は命を落としかねない危機にも遭遇してしまう。1578年、信長から摂津国の統治を任されていた荒木村重が謀反を起こし、有岡城に籠城すると、官兵衛は村重を翻意させるべく、単身、城内に乗り込んだ。ところが、官兵衛は逆に村重に捕らえられ、一年近くもの長きにわたり、身柄を拘束されてしまう。官兵衛はなぜ囚われの身となってしまったのか?そして、官兵衛が監禁生活から学んだこととは? 官兵衛が一向に戻って来ないことに業を煮やした信長は人質にとっていた官兵衛の嫡男・長政を殺害するよう、秀吉に命じた。村重は1年近く籠城を続けるが、兵量の底が見え、毛利の援軍も来ないため、有岡城を脱出。すると、信長が有岡城に総攻撃を仕掛け、官兵衛はようやく自由の身となった。そこで官兵衛は初めて、長政が無事でいることを知る。その裏には、秀吉のもとで軍師として共に戦った盟友・竹中半兵衛の英断があった! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第82回「竹中半兵衛・秀吉を支えた名軍師の誤算」

黒田官兵衛と共に羽柴秀吉を支えた軍略家・竹中半兵衛の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1544年、美濃の大名・斎藤道三に仕える豪族の子として生まれた半兵衛は21歳の時、主君・斎藤龍興の居城である稲葉山城をわずか18人で奪い取るという事件を起こす。その後、織田信長の家臣である秀吉の与力となり、浅井氏・朝倉氏の戦いに参加。さらに長篠・設楽原の戦いで武功を挙げ、軍略家として頭角を現す。 秀吉が中国攻めの総大将となると、半兵衛は自らの後継者と見なし、後に「両兵衛」と並び称される官兵衛と共に毛利方の諸将を攻略。ところが、官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得すべく有岡城に乗り込んだ際に捕らえられ、幽閉されてしまう。半兵衛は官兵衛の息子・黒田長政の命を必死に守るも、病が悪化し、官兵衛の幽閉中に36歳の若さでこの世を去ってしまう。半兵衛はなぜ、官兵衛の危機を防ぐことができなかったのか? 半兵衛が死に際まで安否を気にしていた官兵衛はおよそ一年後、有岡城が陥落したことにより救出され、半兵衛の期待通り、軍師として秀吉の天下統一に力を尽くす。半兵衛に命を救われた長政は半兵衛の兜を継承し、竹中家と黒田家は良好な関係を築いていく。織田軍が別所氏と攻防を繰り広げた三木城の戦いの際、秀吉が布陣した兵庫県三木市に半兵衛の墓が建っている。地元の人々が半兵衛に寄せる思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
黒田官兵衛と共に羽柴秀吉を支えた軍略家・竹中半兵衛の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1544年、美濃の大名・斎藤道三に仕える豪族の子として生まれた半兵衛は21歳の時、主君・斎藤龍興の居城である稲葉山城をわずか18人で奪い取るという事件を起こす。その後、織田信長の家臣である秀吉の与力となり、浅井氏・朝倉氏の戦いに参加。さらに長篠・設楽原の戦いで武功を挙げ、軍略家として頭角を現す。 秀吉が中国攻めの総大将となると、半兵衛は自らの後継者と見なし、後に「両兵衛」と並び称される官兵衛と共に毛利方の諸将を攻略。ところが、官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得すべく有岡城に乗り込んだ際に捕らえられ、幽閉されてしまう。半兵衛は官兵衛の息子・黒田長政の命を必死に守るも、病が悪化し、官兵衛の幽閉中に36歳の若さでこの世を去ってしまう。半兵衛はなぜ、官兵衛の危機を防ぐことができなかったのか? 半兵衛が死に際まで安否を気にしていた官兵衛はおよそ一年後、有岡城が陥落したことにより救出され、半兵衛の期待通り、軍師として秀吉の天下統一に力を尽くす。半兵衛に命を救われた長政は半兵衛の兜を継承し、竹中家と黒田家は良好な関係を築いていく。織田軍が別所氏と攻防を繰り広げた三木城の戦いの際、秀吉が布陣した兵庫県三木市に半兵衛の墓が建っている。地元の人々が半兵衛に寄せる思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第81回「源頼朝・源氏将軍家滅亡を招いた鎌倉殿」

征夷大将軍となった鎌倉殿・源頼朝の敗北から現代に通じる教訓を探る。1147年、源義朝の三男として京都で生まれたとされる頼朝は平治の乱で父・義朝が命を落としたことで運命が一変。14歳で伊豆国に流され、20年もの長きにわたり、流人生活を強いられる。1180年、後白河法皇の第三皇子・以仁王が発した平家追討の令旨を受け、挙兵すると、房総や武蔵の豪族をまとめ、鎌倉に坂東武士団の拠点を築く。 その後、対立した従兄弟の木曾義仲を討ち取ると、宿敵・平家を滅ぼし、さらに敵対した弟・義経もろとも奥州藤原氏を滅亡させ、征夷大将軍の称号を得る。頼朝は自らが築いた源氏将軍家のさらなる繁栄を目指すが、将軍就任から6年半後、突如、帰らぬ人に。頼朝亡き後、二人の息子が将軍職を継ぐが、共に若くして暗殺され、源氏将軍家はわずか三代で絶えてしまう。頼朝はなぜ、源氏政権を永続させることができなかったのか? 嫡男・頼家は18歳で二代将軍となるが、北条氏が頼家の若さに付け込み、13人の御家人による合議制での政治を始める。すると、これに反発した御家人たちによる権力争いが過熱。病に倒れた頼家が伊豆の修禅寺に幽閉され、暗殺されると、三代将軍となった実朝までもが命を奪われてしまう。頼朝の将軍就任から27年、源氏将軍家はあっけなく断絶してしまった。頼朝がもう少し長生きしていたら、状況は変わっていたのか? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
征夷大将軍となった鎌倉殿・源頼朝の敗北から現代に通じる教訓を探る。1147年、源義朝の三男として京都で生まれたとされる頼朝は平治の乱で父・義朝が命を落としたことで運命が一変。14歳で伊豆国に流され、20年もの長きにわたり、流人生活を強いられる。1180年、後白河法皇の第三皇子・以仁王が発した平家追討の令旨を受け、挙兵すると、房総や武蔵の豪族をまとめ、鎌倉に坂東武士団の拠点を築く。 その後、対立した従兄弟の木曾義仲を討ち取ると、宿敵・平家を滅ぼし、さらに敵対した弟・義経もろとも奥州藤原氏を滅亡させ、征夷大将軍の称号を得る。頼朝は自らが築いた源氏将軍家のさらなる繁栄を目指すが、将軍就任から6年半後、突如、帰らぬ人に。頼朝亡き後、二人の息子が将軍職を継ぐが、共に若くして暗殺され、源氏将軍家はわずか三代で絶えてしまう。頼朝はなぜ、源氏政権を永続させることができなかったのか? 嫡男・頼家は18歳で二代将軍となるが、北条氏が頼家の若さに付け込み、13人の御家人による合議制での政治を始める。すると、これに反発した御家人たちによる権力争いが過熱。病に倒れた頼家が伊豆の修禅寺に幽閉され、暗殺されると、三代将軍となった実朝までもが命を奪われてしまう。頼朝の将軍就任から27年、源氏将軍家はあっけなく断絶してしまった。頼朝がもう少し長生きしていたら、状況は変わっていたのか? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
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第80回「平清盛・波間に消えた福原遷都の夢」

平安末期に台頭した平家の棟梁・平清盛の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1118年、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれた清盛は、日宋貿易で財を成した父と共に出世街道を突き進むと、保元・平治の乱で武勇を示し、朝廷の軍事・警察権力を掌握。武士として初めて、朝廷の最高位である太政大臣にまで上り詰める。そして、自らの権力を維持すべく、婚姻政策により、皇族とのつながりを強めていった。 絶大な権力を手にした清盛はわが世の春を謳歌するが、その後、朝廷の最高実力者である後白河法皇と対立。自らの孫を安徳天皇として即位させると、都を日宋貿易の拠点として築いた福原に移し、新たな政治を主導しようとの野望を抱く。しかし、反平家勢力が諸国の源氏と共に次々と挙兵すると、清盛は折角、築いた福原の地を捨て、京都に戻らざるを得なくなった。清盛はなぜ、福原遷都の夢を絶たれてしまったのか? 理想の世を実現すべく進めていた福原遷都を断念し、京に戻った清盛は、源氏との戦いの勝利を目指し、動き出す。ところが、様々な策を巡らせていたその最中、病に見舞われ、あっけなくこの世を去ってしまう。自らの死を悟った清盛は病床でこう呟いたという。「葬儀などは無用。頼朝の首を墓前に供えよ」。清盛の死から4年、栄華を誇った平家は滅亡してしまう。清盛が歴史に残したものとは何だったのか?
平安末期に台頭した平家の棟梁・平清盛の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1118年、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれた清盛は、日宋貿易で財を成した父と共に出世街道を突き進むと、保元・平治の乱で武勇を示し、朝廷の軍事・警察権力を掌握。武士として初めて、朝廷の最高位である太政大臣にまで上り詰める。そして、自らの権力を維持すべく、婚姻政策により、皇族とのつながりを強めていった。 絶大な権力を手にした清盛はわが世の春を謳歌するが、その後、朝廷の最高実力者である後白河法皇と対立。自らの孫を安徳天皇として即位させると、都を日宋貿易の拠点として築いた福原に移し、新たな政治を主導しようとの野望を抱く。しかし、反平家勢力が諸国の源氏と共に次々と挙兵すると、清盛は折角、築いた福原の地を捨て、京都に戻らざるを得なくなった。清盛はなぜ、福原遷都の夢を絶たれてしまったのか? 理想の世を実現すべく進めていた福原遷都を断念し、京に戻った清盛は、源氏との戦いの勝利を目指し、動き出す。ところが、様々な策を巡らせていたその最中、病に見舞われ、あっけなくこの世を去ってしまう。自らの死を悟った清盛は病床でこう呟いたという。「葬儀などは無用。頼朝の首を墓前に供えよ」。清盛の死から4年、栄華を誇った平家は滅亡してしまう。清盛が歴史に残したものとは何だったのか?
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第79回「安国寺恵瓊・関ヶ原の責任を負わされた外交僧」

第79回「安国寺恵瓊・関ヶ原の責任を負わされた外交僧」

中国地方の大大名・毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の敗北から現代に通じる教訓を探る。1537年頃、安芸武田氏の一族として、安芸国に生まれたと考えられる恵瓊は幼い頃、一族が毛利元就によって滅ぼされたため、出家し、10代半ばで京都にある東福寺の高僧・竺雲恵心に師事。恵心と親交のあった毛利家に仕え、備中高松城の戦いで羽柴秀吉と講和交渉を行うなど、外交僧として名を上げる。 主君・毛利輝元が秀吉に臣従した後は、秀吉の天下統一に貢献。秀吉が亡くなり、豊臣政権が二分すると、恵瓊は石田三成らと共に西軍を結成し、徳川家康率いると東軍と対峙するが、関ヶ原の戦いの前日に西軍総大将の輝元が家康と和議を結ぶ。これにより、恵瓊をはじめとする毛利勢は関ヶ原の本戦で兵を動かすことができず、西軍の敗戦を招いてしまった。恵瓊はなぜ、主君に裏切られる形となったのか? 関ヶ原で武人として戦うことすら叶わなかった恵瓊は切腹を覚悟したものの、周囲の説得により生きる決意をし、敵の目をかいくぐり、京都の寺で身を潜める。しかし、敗戦から7日後、東軍の武将に捕縛されると、三成らと共に西軍決起の首謀者と見なされ、斬首刑に処された。毛利家は戦後、所領の大半を家康に没収され、長門と周防のみを安堵されることに。生涯を毛利家に捧げた恵瓊が後世に残したものとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
中国地方の大大名・毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊の敗北から現代に通じる教訓を探る。1537年頃、安芸武田氏の一族として、安芸国に生まれたと考えられる恵瓊は幼い頃、一族が毛利元就によって滅ぼされたため、出家し、10代半ばで京都にある東福寺の高僧・竺雲恵心に師事。恵心と親交のあった毛利家に仕え、備中高松城の戦いで羽柴秀吉と講和交渉を行うなど、外交僧として名を上げる。 主君・毛利輝元が秀吉に臣従した後は、秀吉の天下統一に貢献。秀吉が亡くなり、豊臣政権が二分すると、恵瓊は石田三成らと共に西軍を結成し、徳川家康率いると東軍と対峙するが、関ヶ原の戦いの前日に西軍総大将の輝元が家康と和議を結ぶ。これにより、恵瓊をはじめとする毛利勢は関ヶ原の本戦で兵を動かすことができず、西軍の敗戦を招いてしまった。恵瓊はなぜ、主君に裏切られる形となったのか? 関ヶ原で武人として戦うことすら叶わなかった恵瓊は切腹を覚悟したものの、周囲の説得により生きる決意をし、敵の目をかいくぐり、京都の寺で身を潜める。しかし、敗戦から7日後、東軍の武将に捕縛されると、三成らと共に西軍決起の首謀者と見なされ、斬首刑に処された。毛利家は戦後、所領の大半を家康に没収され、長門と周防のみを安堵されることに。生涯を毛利家に捧げた恵瓊が後世に残したものとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第78回「太原雪斎・今川家の繁栄を維持できなかった軍師」

「黒衣の宰相」と呼ばれた今川家の軍師・太原雪斎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1496年、駿河国に生まれた雪斎は京都の建仁寺などで修行を積み、頭角を現すと、その評判を聞きつけた駿河の大名・今川氏親から義元の教育係に抜擢される。1536年、今川家当主・氏輝が亡くなると、義元は後継者の座を巡り、兄・玄広恵探と敵対。この時、雪斎は恵探を自刃に追いやり、義元を今川家の当主に据えることに成功する。 僧でありながら今川家の政治・外交・軍事を司ることになった雪斎は1549年に西三河を制圧。さらに、雪斎が青写真を描いたと言われる三国同盟により、今川氏は武田氏、北条氏と共に東日本を代表する勢力へと成長を遂げる。しかし、1555年に雪斎が亡くなると、5年後、義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏は10年と持たずに滅亡してしまう。雪斎はなぜ、今川家の繁栄を維持することができなかったのか? 雪斎と義元の死後、当主・氏真は今川家を死守しようと奮闘するが、武田信玄が三国同盟を破棄し、徳川家康と共に今川領を攻撃。領地の大半を失った氏真は降伏を余儀なくされ、この時、大名としての今川家の歴史は終わりを告げる。その後、戦乱の世を勝ち抜き、天下泰平の世を実現したのは、義元と同じく雪斎から薫陶を受けた家康であった。義元と家康の違いは一体、どこにあったのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「黒衣の宰相」と呼ばれた今川家の軍師・太原雪斎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1496年、駿河国に生まれた雪斎は京都の建仁寺などで修行を積み、頭角を現すと、その評判を聞きつけた駿河の大名・今川氏親から義元の教育係に抜擢される。1536年、今川家当主・氏輝が亡くなると、義元は後継者の座を巡り、兄・玄広恵探と敵対。この時、雪斎は恵探を自刃に追いやり、義元を今川家の当主に据えることに成功する。 僧でありながら今川家の政治・外交・軍事を司ることになった雪斎は1549年に西三河を制圧。さらに、雪斎が青写真を描いたと言われる三国同盟により、今川氏は武田氏、北条氏と共に東日本を代表する勢力へと成長を遂げる。しかし、1555年に雪斎が亡くなると、5年後、義元が桶狭間の戦いで討死し、今川氏は10年と持たずに滅亡してしまう。雪斎はなぜ、今川家の繁栄を維持することができなかったのか? 雪斎と義元の死後、当主・氏真は今川家を死守しようと奮闘するが、武田信玄が三国同盟を破棄し、徳川家康と共に今川領を攻撃。領地の大半を失った氏真は降伏を余儀なくされ、この時、大名としての今川家の歴史は終わりを告げる。その後、戦乱の世を勝ち抜き、天下泰平の世を実現したのは、義元と同じく雪斎から薫陶を受けた家康であった。義元と家康の違いは一体、どこにあったのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第77回「喜多川歌麿・江戸幕府の怒りを買った浮世絵師」

江戸時代、美人画で一世を風靡した浮世絵師・喜多川歌麿の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1753年頃、江戸に生まれたと言われる歌麿は狩野派の絵師・鳥山石燕に入門し、絵師として活動を始めるが、なかなか芽が出ず、苦悩していた。そんな中、版元として頭角を現した蔦屋重三郎に出会い、狂歌絵本を手掛けたことで道が開ける。そして、美人大首絵という新たな分野を開拓し、美人画の第一人者に躍り出た。 しかし、重三郎が東洲斎写楽という新たな才能を見出すと、二人の間に溝が生まれる。歌麿は重三郎亡き後、幕府の規制に抗い、孤軍奮闘を続けるが、やがて、自らの代名詞とも言える美人大首絵の発行が禁じられてしまう。さらに「太閤記」を題材にした錦絵が幕府の禁制に触れ、歌麿は厳しい取り調べの末、手鎖50日の罰を受けることに。歌麿はなぜ、幕府の厳しい取り締まりに抵抗し、最後まで戦い続けたのか? 厳罰を受けた二年後、歌麿はひっそりと、その生涯に幕を降ろす。しかし、その創作意欲は最晩年まで続き、自身の集大成とも言える大作を残していたことが近年の研究で明らかになった。三部作「雪月花」のうちの一つ「深川の雪」は歌麿が晩年に度々訪れた栃木で描かれたものだと考えられている。歌麿がその絵に込めた思いとは?そして、歌麿が自らの画業を通じ、後世に残したメッセージとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
江戸時代、美人画で一世を風靡した浮世絵師・喜多川歌麿の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1753年頃、江戸に生まれたと言われる歌麿は狩野派の絵師・鳥山石燕に入門し、絵師として活動を始めるが、なかなか芽が出ず、苦悩していた。そんな中、版元として頭角を現した蔦屋重三郎に出会い、狂歌絵本を手掛けたことで道が開ける。そして、美人大首絵という新たな分野を開拓し、美人画の第一人者に躍り出た。 しかし、重三郎が東洲斎写楽という新たな才能を見出すと、二人の間に溝が生まれる。歌麿は重三郎亡き後、幕府の規制に抗い、孤軍奮闘を続けるが、やがて、自らの代名詞とも言える美人大首絵の発行が禁じられてしまう。さらに「太閤記」を題材にした錦絵が幕府の禁制に触れ、歌麿は厳しい取り調べの末、手鎖50日の罰を受けることに。歌麿はなぜ、幕府の厳しい取り締まりに抵抗し、最後まで戦い続けたのか? 厳罰を受けた二年後、歌麿はひっそりと、その生涯に幕を降ろす。しかし、その創作意欲は最晩年まで続き、自身の集大成とも言える大作を残していたことが近年の研究で明らかになった。三部作「雪月花」のうちの一つ「深川の雪」は歌麿が晩年に度々訪れた栃木で描かれたものだと考えられている。歌麿がその絵に込めた思いとは?そして、歌麿が自らの画業を通じ、後世に残したメッセージとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第76回「蔦屋重三郎・寛政の改革に抗ったメディア王」

歌麿、写楽といった浮世絵師を育てたメディア王・蔦屋重三郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1750年、江戸・吉原で生まれた重三郎は23歳で小さな貸本屋を開業すると、その後、吉原のガイドブックである「吉原細見」の出版権を獲得。これが大ヒットし、版元として独立した重三郎は、庶民の人気を集めていた狂歌本や黄表紙、洒落本などの出版物でもヒットを連発し、創業わずか10年で出版界のリーダーとなる。 ところが、1787年、老中・松平定信が質素倹約・文武奨励を謳う、寛政の改革に着手すると、一気に風向きが変わる。幕府は政治や社会を風刺する版元や作家に睨みをきかせ、問題のある出版を禁じたのだ。重三郎は逆風の中で人気作家・山東京伝を起用し、遊郭を舞台にした洒落本の出版に踏み切るが、幕府の摘発を受け、多くの財産を没収されてしまった。重三郎はなぜ、危険を承知で問題作の出版に踏み切ったのか? 重い処罰を受けた重三郎はその後、起死回生を図り、次々と斬新な作品を世に送り出す。喜多川歌麿の美人大首絵、東洲斎写楽の役者絵は瞬く間に人気シリーズに。さらに新人発掘にも力を注ぎ、曲亭馬琴や十返舎一九、葛飾北斎らをトップクリエイターに押し上げた。1797年、48歳でこの世を去った重三郎は吉原で永久の眠りについている。幾多の名作を生んだ店のある日本橋ではなく、吉原を永眠の地に選んだ理由とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
歌麿、写楽といった浮世絵師を育てたメディア王・蔦屋重三郎の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1750年、江戸・吉原で生まれた重三郎は23歳で小さな貸本屋を開業すると、その後、吉原のガイドブックである「吉原細見」の出版権を獲得。これが大ヒットし、版元として独立した重三郎は、庶民の人気を集めていた狂歌本や黄表紙、洒落本などの出版物でもヒットを連発し、創業わずか10年で出版界のリーダーとなる。 ところが、1787年、老中・松平定信が質素倹約・文武奨励を謳う、寛政の改革に着手すると、一気に風向きが変わる。幕府は政治や社会を風刺する版元や作家に睨みをきかせ、問題のある出版を禁じたのだ。重三郎は逆風の中で人気作家・山東京伝を起用し、遊郭を舞台にした洒落本の出版に踏み切るが、幕府の摘発を受け、多くの財産を没収されてしまった。重三郎はなぜ、危険を承知で問題作の出版に踏み切ったのか? 重い処罰を受けた重三郎はその後、起死回生を図り、次々と斬新な作品を世に送り出す。喜多川歌麿の美人大首絵、東洲斎写楽の役者絵は瞬く間に人気シリーズに。さらに新人発掘にも力を注ぎ、曲亭馬琴や十返舎一九、葛飾北斎らをトップクリエイターに押し上げた。1797年、48歳でこの世を去った重三郎は吉原で永久の眠りについている。幾多の名作を生んだ店のある日本橋ではなく、吉原を永眠の地に選んだ理由とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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