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第18回「北条政子・守れなかった家族の命」

偉人・敗北からの教訓

第18回「北条政子・守れなかった家族の命」

レンタル期間:7日間

あらすじ

鎌倉幕府の礎を築いた尼将軍・北条政子の敗北を紐解き、現代にも通じる教訓を探る。
平治の乱で敗れ、伊豆に流された源頼朝と駆け落ち同然に結婚し、二男二女に恵まれるも、夫と4人の子供を次々と失い、家族としての幸せを手にすることはできなかった。そこには父・時政との対立、弟・義時の暗躍もあった。
政子はなぜ子供たちの命を守ることができなかったのか?最後に残された子供、三代将軍・実朝の暗殺を招いてしまった原因とは?

エピソード

第62回「吉田松陰・安政の大獄に散った苛烈な思想家」

幕末、松下村塾を開いた思想家で教育者の吉田松陰の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた松陰は25歳の時、日米和親条約締結のために来航したペリーの黒船での密航を企てる。しかし、計画は失敗し、長州に強制送還され、投獄されてしまう。出獄後は欧米の脅威に対抗できる優れた人材を育成すべく、身分・階級を問わず、誰もが学べる松下村塾を開き、多くの門下生を受け入れる。 1858年、大老・井伊直弼らが日米修好通商条約を締結すると、松陰は幕府を公然と批判し、老中の暗殺及び革命を計画。すると、長州藩は松下村塾を閉鎖し、松陰を投獄する。しかし、それで事は収まらず、幕府は松陰を江戸に呼び出し、徹底的に取り調べを行うことに。そこで松陰はなんと自らテロ計画を告白、斬首刑に処せられてしまう。松陰はなぜ、死罪を覚悟で自身の考えを打ち明けたのか? 山口県萩市にある松陰神社には、松下村塾の一部が大切に保存されている。松陰の門下生には、初代内閣総理大臣となる伊藤博文や二度、総理大臣を務めた山縣有朋など、明治の政治を主導する者たちがいた。松陰の教えを胸に刻んだ志士たちが倒幕を成し遂げ、明治の新時代を導いたのだ。もし、松陰が幕末、黒船に乗り、アメリカに渡っていたら、その後、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
幕末、松下村塾を開いた思想家で教育者の吉田松陰の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた松陰は25歳の時、日米和親条約締結のために来航したペリーの黒船での密航を企てる。しかし、計画は失敗し、長州に強制送還され、投獄されてしまう。出獄後は欧米の脅威に対抗できる優れた人材を育成すべく、身分・階級を問わず、誰もが学べる松下村塾を開き、多くの門下生を受け入れる。 1858年、大老・井伊直弼らが日米修好通商条約を締結すると、松陰は幕府を公然と批判し、老中の暗殺及び革命を計画。すると、長州藩は松下村塾を閉鎖し、松陰を投獄する。しかし、それで事は収まらず、幕府は松陰を江戸に呼び出し、徹底的に取り調べを行うことに。そこで松陰はなんと自らテロ計画を告白、斬首刑に処せられてしまう。松陰はなぜ、死罪を覚悟で自身の考えを打ち明けたのか? 山口県萩市にある松陰神社には、松下村塾の一部が大切に保存されている。松陰の門下生には、初代内閣総理大臣となる伊藤博文や二度、総理大臣を務めた山縣有朋など、明治の政治を主導する者たちがいた。松陰の教えを胸に刻んだ志士たちが倒幕を成し遂げ、明治の新時代を導いたのだ。もし、松陰が幕末、黒船に乗り、アメリカに渡っていたら、その後、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第61回「太田道灌・文武両道の名将の最期」

第61回「太田道灌・文武両道の名将の最期」

文武両道の名将で築城名人や歌人としても名高い太田道灌の敗北から現代に通じる教訓を探る。1432年、相模国の守護代を務める太田道真の嫡男として生まれた道灌は、鎌倉五山と称される禅宗寺院や下野国にあった高等教育機関、足利学校で学問に打ち込み、父同様、扇谷上杉家に仕えた。24歳の時、戦国時代の先駆けとも言われる一大抗争、享徳の乱が勃発。その最中、防衛拠点として築いた城が江戸城である。 そして、戦いが激化する中、新たな騒動が起こる。扇谷上杉家の上位にあり、実質的に関東の統治にあたっていた山内上杉家の内乱、長尾景春の乱である。道灌はこの争乱の鎮圧に力を尽くす中、自らの勢力を拡大し、関東一円に武名を轟かせる。ところが、ある日、自らの主君にあたる扇谷上杉家の当主に呼び出され、その家臣に暗殺されてしまった。道灌は何故、突然、命を奪われてしまったのか? 合戦中も自らの居城である江戸城で歌会を開くなど、歌人としても名を馳せた道灌。中でも有名なのが「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という古歌を題材にした逸話で、勉強熱心な道灌の性格を物語る話として江戸庶民の間に広まった。道灌が江戸時代に人気を集めた理由とは?そして、もし、道灌が暗殺されなかったら、その後、どんな展開になっていたのか?
文武両道の名将で築城名人や歌人としても名高い太田道灌の敗北から現代に通じる教訓を探る。1432年、相模国の守護代を務める太田道真の嫡男として生まれた道灌は、鎌倉五山と称される禅宗寺院や下野国にあった高等教育機関、足利学校で学問に打ち込み、父同様、扇谷上杉家に仕えた。24歳の時、戦国時代の先駆けとも言われる一大抗争、享徳の乱が勃発。その最中、防衛拠点として築いた城が江戸城である。 そして、戦いが激化する中、新たな騒動が起こる。扇谷上杉家の上位にあり、実質的に関東の統治にあたっていた山内上杉家の内乱、長尾景春の乱である。道灌はこの争乱の鎮圧に力を尽くす中、自らの勢力を拡大し、関東一円に武名を轟かせる。ところが、ある日、自らの主君にあたる扇谷上杉家の当主に呼び出され、その家臣に暗殺されてしまった。道灌は何故、突然、命を奪われてしまったのか? 合戦中も自らの居城である江戸城で歌会を開くなど、歌人としても名を馳せた道灌。中でも有名なのが「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という古歌を題材にした逸話で、勉強熱心な道灌の性格を物語る話として江戸庶民の間に広まった。道灌が江戸時代に人気を集めた理由とは?そして、もし、道灌が暗殺されなかったら、その後、どんな展開になっていたのか?
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第60回「片桐且元・豊臣家滅亡を見届けた家老」

豊臣家の滅亡を見届けた家老・片桐且元の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1556年、近江国に生まれた且元は浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉の家臣となる。且元がその名を轟かせたのは賤ヶ岳の戦い。加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる活躍をし、秀吉の勝利に貢献したのだ。その後、秀吉の天下統一事業を陰で支えた且元は、関ヶ原の戦いの後、豊臣家の家老を任される。 1614年、徳川家康が方広寺の梵鐘に刻まれた文字に激怒し、豊臣家と徳川家の間に亀裂が走る。すると、且元は弁明のため、駿府を訪れる。その後、大坂城に戻った且元は、主君・豊臣秀頼に豊臣家を守るための三つの条件を提示した。ところが、その条件は全て拒否され、且元は城を追われてしまう。そして、大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡の道を歩んでしまう。且元はなぜ豊臣家を救うことができなかったのか? 大坂城からの退去を余儀なくされた且元。すると、家康は、徳川家との取次役を追放したのは宣戦布告に等しいと判断し、諸大名に豊臣攻めの命を下す。豊臣家を追われた且元は不本意ではあるが、徳川軍の一員として大坂攻めに加わるしかなかった。豊臣家の終焉を見届けた且元はその20日後、病によって、この世を去った。もし、且元が提示した条件を秀頼と淀殿が受け入れていたら、どうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
豊臣家の滅亡を見届けた家老・片桐且元の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1556年、近江国に生まれた且元は浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉の家臣となる。且元がその名を轟かせたのは賤ヶ岳の戦い。加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる活躍をし、秀吉の勝利に貢献したのだ。その後、秀吉の天下統一事業を陰で支えた且元は、関ヶ原の戦いの後、豊臣家の家老を任される。 1614年、徳川家康が方広寺の梵鐘に刻まれた文字に激怒し、豊臣家と徳川家の間に亀裂が走る。すると、且元は弁明のため、駿府を訪れる。その後、大坂城に戻った且元は、主君・豊臣秀頼に豊臣家を守るための三つの条件を提示した。ところが、その条件は全て拒否され、且元は城を追われてしまう。そして、大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡の道を歩んでしまう。且元はなぜ豊臣家を救うことができなかったのか? 大坂城からの退去を余儀なくされた且元。すると、家康は、徳川家との取次役を追放したのは宣戦布告に等しいと判断し、諸大名に豊臣攻めの命を下す。豊臣家を追われた且元は不本意ではあるが、徳川軍の一員として大坂攻めに加わるしかなかった。豊臣家の終焉を見届けた且元はその20日後、病によって、この世を去った。もし、且元が提示した条件を秀頼と淀殿が受け入れていたら、どうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第59回「細川ガラシャ・キリスト教に殉じた謀叛人の娘」

戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。 その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか? ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。 その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか? ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第58回「大谷吉継・関ヶ原に散った智将の野望と真実」

病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。 さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか? 吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。 さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか? 吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第57回「清少納言・涙で綴った『枕草子』」

日本初の随筆と言われる『枕草子』の著者・清少納言の敗北から明日を生きるための教訓を探る。966年、和歌の名手・清原元輔の娘として、平安京に生まれたとされる清少納言は漢文や和歌の知識を買われ、一条天皇の后・藤原定子に仕えると、やがて、宮廷サロンの中心人物に躍り出る。ところが、定子の父である関白・藤原道隆が急死、さらに定子の兄と弟が失脚すると、俄かに雲行きが怪しくなる。 新たに政治の主導権を握ったのは道隆の弟・藤原道長だった。同僚らに道長との関係を疑われた清少納言は宮廷を去って引きこもる。その後、定子の計らいで清少納言は宮廷に戻り、懸命に定子を支えるが、定子は一条天皇の後継者候補となる初の男子を出産した直後に急逝、清少納言は失意の中で宮廷を後にする。清少納言はなぜ、敬愛する定子を守りきることができなかったのか?そして『枕草子』に込められたメッセージとは? 定子の死後、清少納言はしばし憔悴していたが、やがて再び筆を執る。書きかけだった『枕草子』の続きを書き始めたのだ。そこには、清少納言が定子たちと共に作り上げた華やかな文化と営みが鮮明に描き出された。清少納言は見たこと、感じたことをありのままに綴る随筆という新たな分野を開拓、その手法は多くの文人に影響を与え、今日に引き継がれている。もし、清少納言が現代に生きていたら、どんな文章を綴っていたのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
日本初の随筆と言われる『枕草子』の著者・清少納言の敗北から明日を生きるための教訓を探る。966年、和歌の名手・清原元輔の娘として、平安京に生まれたとされる清少納言は漢文や和歌の知識を買われ、一条天皇の后・藤原定子に仕えると、やがて、宮廷サロンの中心人物に躍り出る。ところが、定子の父である関白・藤原道隆が急死、さらに定子の兄と弟が失脚すると、俄かに雲行きが怪しくなる。 新たに政治の主導権を握ったのは道隆の弟・藤原道長だった。同僚らに道長との関係を疑われた清少納言は宮廷を去って引きこもる。その後、定子の計らいで清少納言は宮廷に戻り、懸命に定子を支えるが、定子は一条天皇の後継者候補となる初の男子を出産した直後に急逝、清少納言は失意の中で宮廷を後にする。清少納言はなぜ、敬愛する定子を守りきることができなかったのか?そして『枕草子』に込められたメッセージとは? 定子の死後、清少納言はしばし憔悴していたが、やがて再び筆を執る。書きかけだった『枕草子』の続きを書き始めたのだ。そこには、清少納言が定子たちと共に作り上げた華やかな文化と営みが鮮明に描き出された。清少納言は見たこと、感じたことをありのままに綴る随筆という新たな分野を開拓、その手法は多くの文人に影響を与え、今日に引き継がれている。もし、清少納言が現代に生きていたら、どんな文章を綴っていたのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第56回「藤原道長と頼通 摂関政治の盛衰」

飛鳥時代から400年以上にわたり、日本の政治の中心にいた藤原一族の敗北から現代に通じる教訓を探る。藤原氏は645年に蘇我氏を滅ぼした大化の改新の功労者、中臣鎌足が天智天皇に藤原姓を賜ったことに由来する。平安時代、藤原氏は一族が摂政、関白職を世襲し、政治の実権を独占し続ける政治体制、摂関政治を確立。その最盛期を導いた道長は3人の娘を次々と天皇に入内させ、藤原氏の権力を絶対的なものにした。 道長の嫡男・頼通は父にならい、摂関政治を継承し、更なる発展を目指す。結果、50年もの長きにわたり、摂政、関白として君臨し、政治を主導し続けた。ところが、この頼通の時代を最後に摂関政治は衰退し、天皇が自ら政治を主導する親政の時代が復活する。この世に並び立つものがないほどの栄華を極めた藤原氏。その全盛期はなぜ、あっけなく終焉を迎えてしまったのか? 白河天皇の時代に関白となった師実は天皇との協調路線をとったこともあり、以後、摂関家は道長・頼通の直系に継承される。一族最大の危機が訪れたのは頼通の玄孫の時代。忠通と頼長の兄弟が摂関の地位をめぐって対立し、やがて、保元の乱が勃発。さらに平治の乱を経て、武家政権が誕生すると、摂関家は5つの家に分かれ、幕末まで公家社会の中での影響力を保つ。藤原氏がこの国にもたらしたものとは?■出演進行:中西悠理(キャスター)解説:伊東潤(歴史作家)
飛鳥時代から400年以上にわたり、日本の政治の中心にいた藤原一族の敗北から現代に通じる教訓を探る。藤原氏は645年に蘇我氏を滅ぼした大化の改新の功労者、中臣鎌足が天智天皇に藤原姓を賜ったことに由来する。平安時代、藤原氏は一族が摂政、関白職を世襲し、政治の実権を独占し続ける政治体制、摂関政治を確立。その最盛期を導いた道長は3人の娘を次々と天皇に入内させ、藤原氏の権力を絶対的なものにした。 道長の嫡男・頼通は父にならい、摂関政治を継承し、更なる発展を目指す。結果、50年もの長きにわたり、摂政、関白として君臨し、政治を主導し続けた。ところが、この頼通の時代を最後に摂関政治は衰退し、天皇が自ら政治を主導する親政の時代が復活する。この世に並び立つものがないほどの栄華を極めた藤原氏。その全盛期はなぜ、あっけなく終焉を迎えてしまったのか? 白河天皇の時代に関白となった師実は天皇との協調路線をとったこともあり、以後、摂関家は道長・頼通の直系に継承される。一族最大の危機が訪れたのは頼通の玄孫の時代。忠通と頼長の兄弟が摂関の地位をめぐって対立し、やがて、保元の乱が勃発。さらに平治の乱を経て、武家政権が誕生すると、摂関家は5つの家に分かれ、幕末まで公家社会の中での影響力を保つ。藤原氏がこの国にもたらしたものとは?■出演進行:中西悠理(キャスター)解説:伊東潤(歴史作家)
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第55回「平将門・関東の独立を図った過激な反乱」

菅原道真、崇徳天皇と共に日本三大怨霊として恐れられ、また、祭神としても崇められる平将門の敗北から現代に通じる教訓を探る。平安時代中期、桓武平氏の一族として関東に生まれた将門は10代半ばで都に上り、天皇を警護する滝口武者となり、平安貴族の実力者・藤原忠平に仕える。しかし、父の死を受け、やむなく帰郷。その後、伯父をはじめとする一族の争いを制した将門は、関東一円にその武名を轟かせる。 さらに将門は関東の諸豪族の争いに身を投じ、各地の国司と戦うことに。これが朝廷への反乱と見なされる。やがて、関東の大半を制圧した将門は自らを新しい天皇、新皇と称し、関東に独立国家を打ち立てようとした。朝廷はこれに激怒し、将門追討の命を出す。将門はわずかな手勢を率い、一時は戦いを優位に進めるが、敢え無い最期を遂げてしまう。将門はなぜ、前代未聞の反乱を起こし、討死せざるを得なかったのか? 平将門の乱から200年以上が経った後、武家政権を樹立したのは、将門と戦い、勝利した者たちの子孫だった。朝廷に反旗を翻した将門は、その後、怨霊となり、人々に恐れられたと伝わっている。しかし、一方で信仰の対象にもなった。関東の地に幕府を開いた源頼朝、徳川家康らの崇敬を受けた将門は、神田明神の祭神として祀られ、今も多くの人々に崇められている。もし、将門が討死しなかったら、歴史はどう動いたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
菅原道真、崇徳天皇と共に日本三大怨霊として恐れられ、また、祭神としても崇められる平将門の敗北から現代に通じる教訓を探る。平安時代中期、桓武平氏の一族として関東に生まれた将門は10代半ばで都に上り、天皇を警護する滝口武者となり、平安貴族の実力者・藤原忠平に仕える。しかし、父の死を受け、やむなく帰郷。その後、伯父をはじめとする一族の争いを制した将門は、関東一円にその武名を轟かせる。 さらに将門は関東の諸豪族の争いに身を投じ、各地の国司と戦うことに。これが朝廷への反乱と見なされる。やがて、関東の大半を制圧した将門は自らを新しい天皇、新皇と称し、関東に独立国家を打ち立てようとした。朝廷はこれに激怒し、将門追討の命を出す。将門はわずかな手勢を率い、一時は戦いを優位に進めるが、敢え無い最期を遂げてしまう。将門はなぜ、前代未聞の反乱を起こし、討死せざるを得なかったのか? 平将門の乱から200年以上が経った後、武家政権を樹立したのは、将門と戦い、勝利した者たちの子孫だった。朝廷に反旗を翻した将門は、その後、怨霊となり、人々に恐れられたと伝わっている。しかし、一方で信仰の対象にもなった。関東の地に幕府を開いた源頼朝、徳川家康らの崇敬を受けた将門は、神田明神の祭神として祀られ、今も多くの人々に崇められている。もし、将門が討死しなかったら、歴史はどう動いたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第54回「近衛前久・公家の復権を夢見た戦国の関白」

第54回「近衛前久・公家の復権を夢見た戦国の関白」

自らの意志で戦国の最前線に飛び込んだ関白・近衛前久の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1536年、藤原五摂家の筆頭・近衛家の嫡男として生まれた前久は19歳の若さで関白に就任、室町幕府の再興と公家の復権を目指し、奔走する。最初に目を付けたのは上杉謙信。前久は謙信の関東平定、上洛作戦を支援すべく、現役関白でありながら東国に下向するという前代未聞の行動に出るが、作戦は失敗に終わる。その後、足利義昭と対立し、京都を追われ、関白の座も剥奪される。流浪の日々の中、前久が出会ったのが圧倒的な軍事力を有する織田信長だった。前久は信長の天下統一事業に協力し、存在感を発揮する。ところが、1582年、本能寺の変が勃発、信長が横死したことで前久の運命も定まってしまう。前久はなぜ、室町幕府の再興と公家社会の復権という夢を叶えることができなかったのか?信長の後継者となった豊臣秀吉が望んだのは、なんと関白の地位だった。しかし、関白は藤原五摂家から任命される役職。農民出身の秀吉がその座に就くことはできない。そこで秀吉は、前久に自分を猶子にするよう強く求めた。前久はその要求を断ることができず、秀吉は前久の猶子となり、武士として初めて関白に就任、やがて、天下統一を達成する。もし、前久が関白兼征夷大将軍になっていたら、歴史はどう動いたのか?
自らの意志で戦国の最前線に飛び込んだ関白・近衛前久の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1536年、藤原五摂家の筆頭・近衛家の嫡男として生まれた前久は19歳の若さで関白に就任、室町幕府の再興と公家の復権を目指し、奔走する。最初に目を付けたのは上杉謙信。前久は謙信の関東平定、上洛作戦を支援すべく、現役関白でありながら東国に下向するという前代未聞の行動に出るが、作戦は失敗に終わる。その後、足利義昭と対立し、京都を追われ、関白の座も剥奪される。流浪の日々の中、前久が出会ったのが圧倒的な軍事力を有する織田信長だった。前久は信長の天下統一事業に協力し、存在感を発揮する。ところが、1582年、本能寺の変が勃発、信長が横死したことで前久の運命も定まってしまう。前久はなぜ、室町幕府の再興と公家社会の復権という夢を叶えることができなかったのか?信長の後継者となった豊臣秀吉が望んだのは、なんと関白の地位だった。しかし、関白は藤原五摂家から任命される役職。農民出身の秀吉がその座に就くことはできない。そこで秀吉は、前久に自分を猶子にするよう強く求めた。前久はその要求を断ることができず、秀吉は前久の猶子となり、武士として初めて関白に就任、やがて、天下統一を達成する。もし、前久が関白兼征夷大将軍になっていたら、歴史はどう動いたのか?
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第53回「前田慶次・出奔を選んだ天下御免の傾奇者」

第53回「前田慶次・出奔を選んだ天下御免の傾奇者」

天下御免の傾奇者・前田慶次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。織田家の武将・滝川一益の一族として尾張国で生まれたとされる慶次は、上杉景勝の家臣・直江兼続と意気投合し、自らも景勝に仕えると、1600年、「北の関ケ原」と呼ばれる長谷堂城の戦いに参加。兼続と共に苛烈な撤退戦で上杉の大軍を会津まで引き返させるなど、武名を挙げるが、関ヶ原本戦での西軍の敗北により、不遇の晩年を過ごすことになる。そもそも慶次は、尾張前田家の家督を継げず、流浪の日々を過ごした後、叔父・前田利家に仕え、阿尾城の城代を務めるまでになっていた。ところが、1590年頃、突如、前田家を出奔してしまう。そして、その後の放浪生活の中で兼続と出会い、上杉家臣として生きることになるが、結果、負け組の人生を歩むことに。慶次は人生の選択を誤ったとも言える。なぜ、慶次は前田家を出奔すると決断したのか?山形県米沢市にある堂森善光寺の境内に慶次の供養塔が建っている。その碑文によると、慶次は1612年にこの地で没したと伝えられている。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬだけ。乱世を自由奔放に生きた慶次は、最晩年、無心の境地に達していたと言われている。もし、慶次が出奔することなく、前田家の家督を継ぎ、豊臣秀吉の家臣になっていたら、どんな人生を歩んでいたのか?
天下御免の傾奇者・前田慶次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。織田家の武将・滝川一益の一族として尾張国で生まれたとされる慶次は、上杉景勝の家臣・直江兼続と意気投合し、自らも景勝に仕えると、1600年、「北の関ケ原」と呼ばれる長谷堂城の戦いに参加。兼続と共に苛烈な撤退戦で上杉の大軍を会津まで引き返させるなど、武名を挙げるが、関ヶ原本戦での西軍の敗北により、不遇の晩年を過ごすことになる。そもそも慶次は、尾張前田家の家督を継げず、流浪の日々を過ごした後、叔父・前田利家に仕え、阿尾城の城代を務めるまでになっていた。ところが、1590年頃、突如、前田家を出奔してしまう。そして、その後の放浪生活の中で兼続と出会い、上杉家臣として生きることになるが、結果、負け組の人生を歩むことに。慶次は人生の選択を誤ったとも言える。なぜ、慶次は前田家を出奔すると決断したのか?山形県米沢市にある堂森善光寺の境内に慶次の供養塔が建っている。その碑文によると、慶次は1612年にこの地で没したと伝えられている。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬだけ。乱世を自由奔放に生きた慶次は、最晩年、無心の境地に達していたと言われている。もし、慶次が出奔することなく、前田家の家督を継ぎ、豊臣秀吉の家臣になっていたら、どんな人生を歩んでいたのか?
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