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偉人・敗北からの教訓
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第42回「シリーズ信長② 信長と武田信玄・突然の裏切り」

偉人・敗北からの教訓

第42回「シリーズ信長② 信長と武田信玄・突然の裏切り」

月額550円で見放題プランに入る

レンタル期間:7日間

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3週連続で天下人・織田信長の人生における敗北に注目するシリーズの第2回。今回は信長が最も恐れた武将、武田信玄との関係を巡る失敗から、現代に通じる教訓を探る。信玄より13歳年下の信長が織田家の家督を継いだ頃、信玄は北信濃への侵攻を進め、東日本の諸大名が一目を置く存在になっていた。信長の武勇が信玄の耳に届くのは、桶狭間で今川義元を討ち取った時。当時、信玄は川中島で上杉謙信と戦を重ねている最中だった。尾張統一後、美濃への進出を目指した信長は、隣接する信濃を勢力下に置く信玄と同盟を結び、美濃を平定すると、瞬く間に上洛を果たす。信玄は謙信との和睦の仲介を信長に依頼し、信長もそれに応えるが、都の周辺には敵対勢力も多く信長は苦戦を強いられる。そんな中、信玄が信長の同盟者・徳川家康と対立し、西上作戦を決行。徳川領のみならず、織田領にも侵攻した。信長はなぜ、同盟関係にあった信玄に裏切られてしまったのか?信長は家康に援軍を送るも、三方ヶ原の戦いで大敗を喫する。その後、信玄は病に倒れ、亡くなるが、信長の怒りは収まらなかった。そして、信玄に対する恨みは、武田家全体に向けられる。信長は長篠・設楽原の戦いで武田軍を駆逐した後、嫡男・信忠を総大将とする軍勢を甲州に送り、武田家を滅亡させたのだ。もし、信玄が生きながらえて西上作戦を続けていたら、その後、どんな展開が待っていたのか?

エピソード

第111回「岩倉具視・海外で直面した国際常識の壁」

「維新の十傑」の一人・岩倉具視の敗北から現代に通じる教訓を探る。1825年、公卿・堀河康親の次男として京都に生まれ、14歳で公卿・岩倉具慶の養子となった岩倉具視は29歳の時、歌道を学ぶため、関白・鷹司政通の弟子となり、出世の道を歩み始める。やがて、外圧が高まると、幕府は公武合体を目指し、十四代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻を画策。岩倉は朝廷内の大多数が反対する中、和宮降嫁を実現させた。 佐幕派と見なされた岩倉は5年もの蟄居生活を余儀なくされる。1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉は大久保利通らと共に王政復古のクーデターを成功させ、明治新政府の樹立に貢献。その後、版籍奉還などの重要政策に関与した後、特命全権大使として欧米諸国の視察に向かうが、アメリカと結んだ不平等条約改正交渉を途中で断念してしまう。岩倉はなぜ、アメリカとの交渉を思い通りに進められなかったのか? 欧米で鉄道に衝撃を受けた岩倉は1881年、現在のJR東日本のルーツである日本鉄道を設立。自らが失敗した条約改正を実現するためには近代国家の証である憲法を持つことが必須であると痛感し、その制定を目指すが、志半ばで病に倒れる。そして、明治天皇が直々にお見舞いに訪れた翌日、静かに息を引き取った。享年59。岩倉の葬儀は日本初の国葬として執り行われた。日本の近代化に力を尽くした岩倉の子孫が語る思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「維新の十傑」の一人・岩倉具視の敗北から現代に通じる教訓を探る。1825年、公卿・堀河康親の次男として京都に生まれ、14歳で公卿・岩倉具慶の養子となった岩倉具視は29歳の時、歌道を学ぶため、関白・鷹司政通の弟子となり、出世の道を歩み始める。やがて、外圧が高まると、幕府は公武合体を目指し、十四代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻を画策。岩倉は朝廷内の大多数が反対する中、和宮降嫁を実現させた。 佐幕派と見なされた岩倉は5年もの蟄居生活を余儀なくされる。1867年、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉は大久保利通らと共に王政復古のクーデターを成功させ、明治新政府の樹立に貢献。その後、版籍奉還などの重要政策に関与した後、特命全権大使として欧米諸国の視察に向かうが、アメリカと結んだ不平等条約改正交渉を途中で断念してしまう。岩倉はなぜ、アメリカとの交渉を思い通りに進められなかったのか? 欧米で鉄道に衝撃を受けた岩倉は1881年、現在のJR東日本のルーツである日本鉄道を設立。自らが失敗した条約改正を実現するためには近代国家の証である憲法を持つことが必須であると痛感し、その制定を目指すが、志半ばで病に倒れる。そして、明治天皇が直々にお見舞いに訪れた翌日、静かに息を引き取った。享年59。岩倉の葬儀は日本初の国葬として執り行われた。日本の近代化に力を尽くした岩倉の子孫が語る思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第110回「立花宗茂・異例の大出世からの改易と復活劇」

東の本多忠勝と並び、東西無双と称えられる猛将・立花宗茂の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、豊後の大友宗麟に仕える高橋紹運の嫡男として生まれた宗茂は15歳の時、同じく宗麟の重臣・戸次道雪の婿養子となり、立花城に入る。この頃、宗麟は島津氏との戦いに敗れ、大友氏の勢力は衰退するが、宗茂は島津軍を相手に奮闘。九州平定を成し遂げた豊臣秀吉から柳川の地を与えられ、独立大名への出世を果たす。 その後、朝鮮出兵でも活躍した宗茂は秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立すると、周囲の反対を押し切って西軍に味方し、大津城を陥落させるも、関ヶ原の本戦には間に合わなかった。宗茂は柳川城を明け渡す決断を下すが、家康は納得せず、宗茂を改易処分とした。戦の天才と称され、戦場で無類の強さを誇った宗茂はなぜ、天下分け目の戦いで西軍に加担し、全ての所領を失う結果となったのか? 1602年、最愛の妻・誾千代が死去。旧領復帰を切望していた宗茂は武芸や芸能の腕を磨きながら時を過ごした。1605年、徳川秀忠が二代将軍に就任すると、宗茂は将軍の側近である御書院番頭に。翌1606年には陸奥国棚倉1万石の大名に復帰した。そして1620年、旧領である柳川の大名に返り咲いた。関ヶ原の戦いの後に改易され、旧領に復帰できた大名はただ一人。宗茂はなぜ、奇跡の復活を遂げることができたのか?
東の本多忠勝と並び、東西無双と称えられる猛将・立花宗茂の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、豊後の大友宗麟に仕える高橋紹運の嫡男として生まれた宗茂は15歳の時、同じく宗麟の重臣・戸次道雪の婿養子となり、立花城に入る。この頃、宗麟は島津氏との戦いに敗れ、大友氏の勢力は衰退するが、宗茂は島津軍を相手に奮闘。九州平定を成し遂げた豊臣秀吉から柳川の地を与えられ、独立大名への出世を果たす。 その後、朝鮮出兵でも活躍した宗茂は秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立すると、周囲の反対を押し切って西軍に味方し、大津城を陥落させるも、関ヶ原の本戦には間に合わなかった。宗茂は柳川城を明け渡す決断を下すが、家康は納得せず、宗茂を改易処分とした。戦の天才と称され、戦場で無類の強さを誇った宗茂はなぜ、天下分け目の戦いで西軍に加担し、全ての所領を失う結果となったのか? 1602年、最愛の妻・誾千代が死去。旧領復帰を切望していた宗茂は武芸や芸能の腕を磨きながら時を過ごした。1605年、徳川秀忠が二代将軍に就任すると、宗茂は将軍の側近である御書院番頭に。翌1606年には陸奥国棚倉1万石の大名に復帰した。そして1620年、旧領である柳川の大名に返り咲いた。関ヶ原の戦いの後に改易され、旧領に復帰できた大名はただ一人。宗茂はなぜ、奇跡の復活を遂げることができたのか?
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第109回「北条氏康・三国同盟崩壊を招いた相模の獅子」

関東平定を目指した戦国大名・北条氏康の敗北から現代に通じる教訓を探る。1515年、北条家二代当主・北条氏綱の嫡男として生まれた氏康は16歳で初陣を飾り、北条氏の勢力拡大に貢献。27歳の時に父の死を受け、三代当主になると、飢饉や天災などにより、領民たちが混乱する中、内政の危機を乗り切る。さらに、河越城での戦いで上野の上杉憲政らを破り、関東の主導者としての地位を確固たるものにした。 長年、睨み合いが続いていた駿河の今川義元、甲斐の武田信玄と三国同盟を結び、背後の脅威を絶った氏康は以後、関東での戦いに専念。1561年には越後の上杉謙信により本拠地・小田原城が包囲されてしまうが、巧みな籠城戦により退けることに成功した。ところが、1568年、関東平定を果たすためには不可欠とも言える三国同盟が瓦解してしまう。氏康はなぜ、折角、築いた同盟関係を維持することができなかったのか? 1569年、かつての盟友・信玄により小田原城が包囲されるが、氏康はこれを跳ね返し、2年後、この世に別れを告げた。千葉県鋸南町に生前の氏康の苦悩が窺える史料が残されている。1561年、謙信に小田原城を包囲された後に書かれたものだ。氏康は自分が領民のために行った善政を列記した上でこう問いかけている。「私の今までの行動は天道に背く行動だったのでしょうか?」平和な世を願い続けた氏康の類まれな魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
関東平定を目指した戦国大名・北条氏康の敗北から現代に通じる教訓を探る。1515年、北条家二代当主・北条氏綱の嫡男として生まれた氏康は16歳で初陣を飾り、北条氏の勢力拡大に貢献。27歳の時に父の死を受け、三代当主になると、飢饉や天災などにより、領民たちが混乱する中、内政の危機を乗り切る。さらに、河越城での戦いで上野の上杉憲政らを破り、関東の主導者としての地位を確固たるものにした。 長年、睨み合いが続いていた駿河の今川義元、甲斐の武田信玄と三国同盟を結び、背後の脅威を絶った氏康は以後、関東での戦いに専念。1561年には越後の上杉謙信により本拠地・小田原城が包囲されてしまうが、巧みな籠城戦により退けることに成功した。ところが、1568年、関東平定を果たすためには不可欠とも言える三国同盟が瓦解してしまう。氏康はなぜ、折角、築いた同盟関係を維持することができなかったのか? 1569年、かつての盟友・信玄により小田原城が包囲されるが、氏康はこれを跳ね返し、2年後、この世に別れを告げた。千葉県鋸南町に生前の氏康の苦悩が窺える史料が残されている。1561年、謙信に小田原城を包囲された後に書かれたものだ。氏康は自分が領民のために行った善政を列記した上でこう問いかけている。「私の今までの行動は天道に背く行動だったのでしょうか?」平和な世を願い続けた氏康の類まれな魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第108回「お市の方・信長の妹が背負った宿命」

戦国一の美貌を誇ったと伝わるお市の方の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、尾張の戦国大名・織田信秀の娘として生まれたと言われるお市は21歳の時、北近江の浅井長政と結婚する。それは兄・織田信長が浅井家との同盟を強化するための政略結婚だった。ところが、信長が足利義昭を奉じて上洛した後、越前の朝倉義景と敵対すると、長政は突如、信長に反旗を翻す。お市は兄と夫の戦いをただ見守るしかなかった。 1573年、浅井家が信長によって滅ぼされると、お市は娘の茶々、初、江と共に織田家に戻り、懸命に子育てに取り組むが、1582年、本能寺の変で兄・信長が横死すると、織田家筆頭家老・柴田勝家と結婚することに。しかし、翌年、勃発した賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に屈すると、お市は敵である秀吉に3人の娘を託し、夫・勝家と共に自刃の道を選択した。お市はなぜ、政略の渦中に身を投じ、命を散らしてしまったのか? お市の長女・茶々は秀吉の妻となり、秀頼を出産。次女・初は近江の大名・京極高次と結婚、三女・江は二度の縁組を経て、徳川秀忠の妻となった。お市の死から31年、三姉妹は大坂の陣で敵味方に分かれて向き合うことに。結果、豊臣家は滅亡し、茶々は母・お市と同様、自刃によって生涯を閉じた。初と江は天下泰平を導いた徳川政権のもと、穏やかな晩年を過ごした。激しい戦火を生き抜いたお市はどんな未来を見つめていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
戦国一の美貌を誇ったと伝わるお市の方の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、尾張の戦国大名・織田信秀の娘として生まれたと言われるお市は21歳の時、北近江の浅井長政と結婚する。それは兄・織田信長が浅井家との同盟を強化するための政略結婚だった。ところが、信長が足利義昭を奉じて上洛した後、越前の朝倉義景と敵対すると、長政は突如、信長に反旗を翻す。お市は兄と夫の戦いをただ見守るしかなかった。 1573年、浅井家が信長によって滅ぼされると、お市は娘の茶々、初、江と共に織田家に戻り、懸命に子育てに取り組むが、1582年、本能寺の変で兄・信長が横死すると、織田家筆頭家老・柴田勝家と結婚することに。しかし、翌年、勃発した賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に屈すると、お市は敵である秀吉に3人の娘を託し、夫・勝家と共に自刃の道を選択した。お市はなぜ、政略の渦中に身を投じ、命を散らしてしまったのか? お市の長女・茶々は秀吉の妻となり、秀頼を出産。次女・初は近江の大名・京極高次と結婚、三女・江は二度の縁組を経て、徳川秀忠の妻となった。お市の死から31年、三姉妹は大坂の陣で敵味方に分かれて向き合うことに。結果、豊臣家は滅亡し、茶々は母・お市と同様、自刃によって生涯を閉じた。初と江は天下泰平を導いた徳川政権のもと、穏やかな晩年を過ごした。激しい戦火を生き抜いたお市はどんな未来を見つめていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第107回「朝倉義景・京文化を愛でた大名家の滅亡」

織田信長と敵対し、滅ぼされた朝倉義景の敗北から現代に通じる教訓を探る。但馬国を発祥とする朝倉氏は南北朝時代に越前に入り、室町時代、越前の守護代に任ぜられた名門。七代当主・孝景の時代に越前一国を治める戦国大名となった。1533年に誕生した義景は16歳で十一代当主となり、武勇で名を馳せた宿老、朝倉宗滴の補佐を受け、政務や軍事に取り組む一方、朝倉氏代々の本拠地・一乗谷に京風の雅な文化を開花させた。 1565年、室町幕府十三代将軍・足利義輝が殺害されると、義景は義輝の弟・足利義昭を一乗谷で匿うが、義昭の上洛要請には応じなかった。義昭が信長を頼って上洛すると、義景は信長と対立し、苛烈な戦いに身を投じる。一時は信長を追い詰めるも、武田信玄を巻き込んで信長包囲網を強化する中、戦線を離脱。1573年、本拠地・一乗谷を焼かれ、自刃の道を選択せざるを得なかった。義景はなぜ、信長に屈してしまったのか? 義景の死後、義景の母と妻子は織田軍に命を絶たれ、五代100年余りの栄華を築いた、戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。三日三晩、炎上した後、長らく放置されていたという一乗谷の遺跡から、義景が抱いた夢の欠片が出土している。薩摩の島津氏らと通じ、琉球や大陸との交易も構想していたという義景は経済力と文化力を高めることでさらなる繁栄を導けると考えていた。義景が生涯をかけて追い求めた夢とは何だったのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
織田信長と敵対し、滅ぼされた朝倉義景の敗北から現代に通じる教訓を探る。但馬国を発祥とする朝倉氏は南北朝時代に越前に入り、室町時代、越前の守護代に任ぜられた名門。七代当主・孝景の時代に越前一国を治める戦国大名となった。1533年に誕生した義景は16歳で十一代当主となり、武勇で名を馳せた宿老、朝倉宗滴の補佐を受け、政務や軍事に取り組む一方、朝倉氏代々の本拠地・一乗谷に京風の雅な文化を開花させた。 1565年、室町幕府十三代将軍・足利義輝が殺害されると、義景は義輝の弟・足利義昭を一乗谷で匿うが、義昭の上洛要請には応じなかった。義昭が信長を頼って上洛すると、義景は信長と対立し、苛烈な戦いに身を投じる。一時は信長を追い詰めるも、武田信玄を巻き込んで信長包囲網を強化する中、戦線を離脱。1573年、本拠地・一乗谷を焼かれ、自刃の道を選択せざるを得なかった。義景はなぜ、信長に屈してしまったのか? 義景の死後、義景の母と妻子は織田軍に命を絶たれ、五代100年余りの栄華を築いた、戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。三日三晩、炎上した後、長らく放置されていたという一乗谷の遺跡から、義景が抱いた夢の欠片が出土している。薩摩の島津氏らと通じ、琉球や大陸との交易も構想していたという義景は経済力と文化力を高めることでさらなる繁栄を導けると考えていた。義景が生涯をかけて追い求めた夢とは何だったのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第106回「家康に天下を取らせた武将たち④ 榊原康政」

「無」の旗印を掲げ、主君・徳川家康の覇業を支えた知勇兼備の名将・榊原康政の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1548年、三河国の下級武士の次男として生まれた康政は幼少期から勉学を好み、13歳で家康の小姓となる。16歳の時に三河一向一揆で初陣を果たすと、翌年、同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の合戦で活躍し、その武勇を轟かせた。 1590年、家康が関東に移封されると、康政は上野国館林10万石を与えられ、治水や街道整備などの内政にも尽力。1600年、豊臣政権を二分する戦いが勃発すると、康政は徳川秀忠率いる大軍の軍監として、東山道を西へ向かった。ところが、途中、真田昌幸が籠る上田城での戦いや悪天候の影響もあり、秀忠の関ヶ原遅参を招いてしまった。康政はなぜ、秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わせることができなかったのか? 関ヶ原で合戦の指揮を執れなかった康政は家康に詫びを入れ、秀忠には非がなく、許すよう説得した。戦後、家康は康政を館林10万石から水戸25万石に加増する旨を伝えたが、康政はこれを辞退。そして、家康が征夷大将軍の座を秀忠に譲った翌1606年、59歳でこの世を去った。康政にゆかりがある豊田、館林、姫路、上越の各市では毎年、市長が集い、「榊原サミット」を開いている。康政が今もなお、人々を魅了する理由とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「無」の旗印を掲げ、主君・徳川家康の覇業を支えた知勇兼備の名将・榊原康政の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1548年、三河国の下級武士の次男として生まれた康政は幼少期から勉学を好み、13歳で家康の小姓となる。16歳の時に三河一向一揆で初陣を果たすと、翌年、同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の合戦で活躍し、その武勇を轟かせた。 1590年、家康が関東に移封されると、康政は上野国館林10万石を与えられ、治水や街道整備などの内政にも尽力。1600年、豊臣政権を二分する戦いが勃発すると、康政は徳川秀忠率いる大軍の軍監として、東山道を西へ向かった。ところが、途中、真田昌幸が籠る上田城での戦いや悪天候の影響もあり、秀忠の関ヶ原遅参を招いてしまった。康政はなぜ、秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わせることができなかったのか? 関ヶ原で合戦の指揮を執れなかった康政は家康に詫びを入れ、秀忠には非がなく、許すよう説得した。戦後、家康は康政を館林10万石から水戸25万石に加増する旨を伝えたが、康政はこれを辞退。そして、家康が征夷大将軍の座を秀忠に譲った翌1606年、59歳でこの世を去った。康政にゆかりがある豊田、館林、姫路、上越の各市では毎年、市長が集い、「榊原サミット」を開いている。康政が今もなお、人々を魅了する理由とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第105回「家康に天下を取らせた武将たち③ 本多忠勝」

徳川家臣最強と謳われる名将・本多忠勝の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家の前身である松平家に古くから仕える譜代家臣・本多家の嫡男として、1548年、三河国に生まれた忠勝はわずか2歳で父・忠高を合戦で失い、叔父・忠真に厳しく育てられた。13歳で初陣を果たすと、三河一向一揆で本多一族の大半が一揆勢に付く中、家康に従い、信頼を勝ち取る。その後、家康が参加した、ほぼ全ての合戦に従軍し、武勇を示した。 織田信長や豊臣秀吉からも絶賛された忠勝は関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、戦後、初代桑名藩主となり、城下町の整備に力を尽くした。生涯に57回もの合戦に出陣し、かすり傷一つ負わなかったと言われる忠勝は1610年、63歳で生涯を閉じる。臨終間際にこう呟いて...。「死にたくない。家康様の恩義にもっと報いたい」。幾多の戦場で死をも恐れずに戦い続けた忠勝はなぜ、「死にたくない」と思ったのか? 忠勝の嫡男・忠政は桑名藩主として藩政に取り組んだ後、大坂の陣で武功を挙げ、戦後、姫路15万石に加増移封された。忠政の嫡男・忠刻は二代将軍・徳川秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫を妻に迎えた。そこには、忠勝に対する、家康の特別な思いがあった。その後、各地を転々とした本多家は江戸時代半ばに一族のルーツとも言える岡崎に移され、幕末まで岡崎藩主を務めた。忠勝が子々孫々に伝えたかった思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
徳川家臣最強と謳われる名将・本多忠勝の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家の前身である松平家に古くから仕える譜代家臣・本多家の嫡男として、1548年、三河国に生まれた忠勝はわずか2歳で父・忠高を合戦で失い、叔父・忠真に厳しく育てられた。13歳で初陣を果たすと、三河一向一揆で本多一族の大半が一揆勢に付く中、家康に従い、信頼を勝ち取る。その後、家康が参加した、ほぼ全ての合戦に従軍し、武勇を示した。 織田信長や豊臣秀吉からも絶賛された忠勝は関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、戦後、初代桑名藩主となり、城下町の整備に力を尽くした。生涯に57回もの合戦に出陣し、かすり傷一つ負わなかったと言われる忠勝は1610年、63歳で生涯を閉じる。臨終間際にこう呟いて...。「死にたくない。家康様の恩義にもっと報いたい」。幾多の戦場で死をも恐れずに戦い続けた忠勝はなぜ、「死にたくない」と思ったのか? 忠勝の嫡男・忠政は桑名藩主として藩政に取り組んだ後、大坂の陣で武功を挙げ、戦後、姫路15万石に加増移封された。忠政の嫡男・忠刻は二代将軍・徳川秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫を妻に迎えた。そこには、忠勝に対する、家康の特別な思いがあった。その後、各地を転々とした本多家は江戸時代半ばに一族のルーツとも言える岡崎に移され、幕末まで岡崎藩主を務めた。忠勝が子々孫々に伝えたかった思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第104回「井伊直弼・桜田門外に散った辣腕の大老」

幕末、幕府の方針に反する尊攘派の藩士らによって命を絶たれた井伊直弼の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1815年、彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた直弼は家督を継ぐ可能性がほぼなく、青年期には埋木舎と名付けられた屋敷で学問や居合、茶道などに没頭する日々を送っていた。ところが、1850年、兄である井伊家当主・井伊直亮が亡くなり、36歳にして彦根藩主に就任した。 1853年、黒船が来航、さらに将軍の後継者問題が起きると、直弼は幕府の混乱を収めるべく、大老に就任。天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、将軍の後継者を紀州派の徳川慶福に決めるなど辣腕を振るうと、さらに、秩序を乱す者を容赦なく弾圧する、安政の大獄に踏み切った。しかし、この強硬策が反感を買い、1860年、直弼は桜田門外で命を絶たれてしまう。直弼はなぜ、暗殺を避けることができなかったのか? 直弼の死を幕府はすぐには公表しなかった。藩主が後継者を指名する前に亡くなると、家が取り潰されてしまうからだ。幕府は混乱を避けるため、「大老は治療中」と偽り、井伊家の存続と跡継ぎの手続きを最優先で進めたという。しかし、直弼が暗殺されたという事実はすぐに知れ渡り、世の中は一気に幕末の騒乱の渦に飲み込まれていく。直弼は亡くなる年の正月にある歌を詠んでいた。直弼が歌に込めた思いとは?
幕末、幕府の方針に反する尊攘派の藩士らによって命を絶たれた井伊直弼の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1815年、彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた直弼は家督を継ぐ可能性がほぼなく、青年期には埋木舎と名付けられた屋敷で学問や居合、茶道などに没頭する日々を送っていた。ところが、1850年、兄である井伊家当主・井伊直亮が亡くなり、36歳にして彦根藩主に就任した。 1853年、黒船が来航、さらに将軍の後継者問題が起きると、直弼は幕府の混乱を収めるべく、大老に就任。天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、将軍の後継者を紀州派の徳川慶福に決めるなど辣腕を振るうと、さらに、秩序を乱す者を容赦なく弾圧する、安政の大獄に踏み切った。しかし、この強硬策が反感を買い、1860年、直弼は桜田門外で命を絶たれてしまう。直弼はなぜ、暗殺を避けることができなかったのか? 直弼の死を幕府はすぐには公表しなかった。藩主が後継者を指名する前に亡くなると、家が取り潰されてしまうからだ。幕府は混乱を避けるため、「大老は治療中」と偽り、井伊家の存続と跡継ぎの手続きを最優先で進めたという。しかし、直弼が暗殺されたという事実はすぐに知れ渡り、世の中は一気に幕末の騒乱の渦に飲み込まれていく。直弼は亡くなる年の正月にある歌を詠んでいた。直弼が歌に込めた思いとは?
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第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」

第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」

群雄割拠の戦国時代、関東甲信越の勢力争いに翻弄された上杉景虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1554年、相模の大名、北条氏康の子して生まれた三郎は幼くして箱根の早雲寺に預けられ、16歳の時、大叔父・北条幻庵の養子となる。しかし、ちょうどその頃、氏康が武田信玄に対抗すべく、上杉謙信と同盟を締結。この時、三郎が上杉家に養子に出され、名を景虎と改める。景虎は謙信の跡継ぎ候補として期待されていた。 しかし、跡継ぎ候補はもう一人いた。謙信の甥・上杉景勝である。1578年、謙信が急病により亡くなると、上杉家中を二分する内乱、御館の乱が勃発。この御家騒動は景虎の実家である北条氏をはじめ、周辺の有力大名を巻き込む、大規模な争乱に発展した。景虎は御館と呼ばれる屋敷を拠点に景勝と対峙するが、約10カ月後、景勝軍の猛攻に遭い、自刃へと追いやられてしまった。景虎はなぜ、景勝に屈してしまったのか? 景虎の死後、反景勝派の重臣たちはさらに1年以上も抵抗を続け、上杉家の内乱が完全に終息したのは1580年のことだった。越後を二分した争乱は一体、何をもたらしたのか?景虎が自刃した鮫ヶ尾城の近くにある勝福寺には、景虎の石像や供養塔が建っている。毎年4月29日に景虎の法要が営まれ、地元の人々は今も景虎の遺徳を偲んでいる。どうにもならない運命に翻弄され続けた景虎の人生が語りかけるものとは?
群雄割拠の戦国時代、関東甲信越の勢力争いに翻弄された上杉景虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1554年、相模の大名、北条氏康の子して生まれた三郎は幼くして箱根の早雲寺に預けられ、16歳の時、大叔父・北条幻庵の養子となる。しかし、ちょうどその頃、氏康が武田信玄に対抗すべく、上杉謙信と同盟を締結。この時、三郎が上杉家に養子に出され、名を景虎と改める。景虎は謙信の跡継ぎ候補として期待されていた。 しかし、跡継ぎ候補はもう一人いた。謙信の甥・上杉景勝である。1578年、謙信が急病により亡くなると、上杉家中を二分する内乱、御館の乱が勃発。この御家騒動は景虎の実家である北条氏をはじめ、周辺の有力大名を巻き込む、大規模な争乱に発展した。景虎は御館と呼ばれる屋敷を拠点に景勝と対峙するが、約10カ月後、景勝軍の猛攻に遭い、自刃へと追いやられてしまった。景虎はなぜ、景勝に屈してしまったのか? 景虎の死後、反景勝派の重臣たちはさらに1年以上も抵抗を続け、上杉家の内乱が完全に終息したのは1580年のことだった。越後を二分した争乱は一体、何をもたらしたのか?景虎が自刃した鮫ヶ尾城の近くにある勝福寺には、景虎の石像や供養塔が建っている。毎年4月29日に景虎の法要が営まれ、地元の人々は今も景虎の遺徳を偲んでいる。どうにもならない運命に翻弄され続けた景虎の人生が語りかけるものとは?
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第102回「伊達政宗・砕け散った南蛮貿易の夢」

独自の南蛮貿易により、莫大な富を得ようとした伊達政宗の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、出羽国生まれた政宗は18歳で家督を継ぐと、南奥州の強敵・蘆名氏を下し、天下への野心を燃やすが、1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉に臣従。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは100万石のお墨付きを得て東軍に参加し、東北の地で西軍の上杉景勝を攻めるが、約束された領土拡大はならなかった。 天下が徳川家康の手に渡っても、政宗はまだ諦めていなかった。海外から莫大な富を得るべく、家臣の支倉常長をはじめとする慶長遣欧使節を派遣。メキシコ・スペインと直接貿易を行おうとしたが、時を同じくして幕府が禁教令を発し、キリスト教の弾圧を強化した。この一報がヨーロッパにも伝わり、使節団の交渉が難航、結局、何の成果も得られぬまま、帰国せざるを得なくなった。政宗は南蛮貿易という壮大な夢をなぜ、諦めたのか? 1620年、政宗は幕府の意向に従い、禁教令を発し、領内のキリシタンを取り締まるが、スペインでキリスト教の洗礼を受けた支倉常長は棄教を拒んだまま、この世を去った。その後、幕府が鎖国政策を行ったことで、政宗が慶長遣欧使節を派遣した事実は忘れ去られるが、明治時代、岩倉使節団が派遣されたことで再び脚光を浴びる。大いなる野心を抱き、海外に目を向けた政宗は今日、どのような評価を受けているのか?
独自の南蛮貿易により、莫大な富を得ようとした伊達政宗の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、出羽国生まれた政宗は18歳で家督を継ぐと、南奥州の強敵・蘆名氏を下し、天下への野心を燃やすが、1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉に臣従。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは100万石のお墨付きを得て東軍に参加し、東北の地で西軍の上杉景勝を攻めるが、約束された領土拡大はならなかった。 天下が徳川家康の手に渡っても、政宗はまだ諦めていなかった。海外から莫大な富を得るべく、家臣の支倉常長をはじめとする慶長遣欧使節を派遣。メキシコ・スペインと直接貿易を行おうとしたが、時を同じくして幕府が禁教令を発し、キリスト教の弾圧を強化した。この一報がヨーロッパにも伝わり、使節団の交渉が難航、結局、何の成果も得られぬまま、帰国せざるを得なくなった。政宗は南蛮貿易という壮大な夢をなぜ、諦めたのか? 1620年、政宗は幕府の意向に従い、禁教令を発し、領内のキリシタンを取り締まるが、スペインでキリスト教の洗礼を受けた支倉常長は棄教を拒んだまま、この世を去った。その後、幕府が鎖国政策を行ったことで、政宗が慶長遣欧使節を派遣した事実は忘れ去られるが、明治時代、岩倉使節団が派遣されたことで再び脚光を浴びる。大いなる野心を抱き、海外に目を向けた政宗は今日、どのような評価を受けているのか?
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