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偉人・敗北からの教訓
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第35回「荒木村重・信長に反旗を翻した籠城戦」

偉人・敗北からの教訓

第35回「荒木村重・信長に反旗を翻した籠城戦」

月額550円で見放題プランに入る

レンタル期間:7日間

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「妻子や家臣を見捨てた逃亡!」今回は織田信長に反旗を翻した家臣、荒木村重の敗北を紐解き、明日を生きるための教訓を探る。30代で摂津国の実権を掌握し、その後、信長に臣従した村重は、畿内の合戦のみならず、越前一向一揆などでも戦功を挙げ、西国政策を任せられるなど、異例の出世を遂げる。ところが、突如、居城である有岡城に立て籠もり、信長との対決姿勢を示す。
しかし、期待した毛利氏の援軍を得られず、籠城戦は一年にも及ぶ。追い込まれた村重は、わずかな家臣を連れ、有岡城を脱出。残された妻子や家臣、その家族ら600人以上が処刑されてしまう。村重はなぜ城を捨て、一族を見殺しにしてしまったのか?
その後、毛利家に亡命し、生きながらえた村重は、信長が本能寺の変で倒れた後、「道薫」を名乗り、茶人として表舞台に返り咲く。村重が人生の最晩年に目指したものとは?村重の願いは一族の子孫によって果たされることになる。

エピソード

第92回「江藤新平・司法制度の父が起こした佐賀の乱」

明治初期に日本の司法制度を整備した江藤新平の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1834年、佐賀藩の下級武士の家に生まれた江藤は藩校・弘道館で大隈重信らに出会い、国家を論じる。江戸幕府が倒れ、明治新政府の一員となった江藤は四民平等を目指して奔走。司法省を設立し、司法卿に就任すると、全国に裁判所を設置し、検事や判事などの職務を定め、誰もが公平な裁きを受けられるよう、司法制度を構築した。 ところが、1873年、征韓論をめぐり、政権の中枢にいた大久保利通らと対立。江藤は政府を去り、日本初の政治政党を立ち上げる。そんな江藤を政府は危険人物と見なし、佐賀に鎮圧部隊を派遣。江藤は佐賀の乱を起こして戦うが、政府軍の圧倒的な戦力に敵わず、敗北。刑場の露と消えてしまう。江藤は明晰な頭脳を持ちながら、なぜ、佐賀の乱の首謀者となり、政府と戦うことになってしまったのか? 志半ばでこの世を去った江藤に対し、同郷の士・大隈重信はこんな言葉を残している。「江藤を失った国家は更に甚大なる損害であり、不幸であった」。1916年、江藤は明治政府時代に与えられていた正四位を追贈され、ようやく名誉回復を果たす。そこに尽力したのは、時の内閣総理大臣・大隈重信であった。佐賀市内の公園には郷土の偉人として、江藤の像が建てられている。今日に連綿と受け継がれている佐賀の人々の思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
明治初期に日本の司法制度を整備した江藤新平の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1834年、佐賀藩の下級武士の家に生まれた江藤は藩校・弘道館で大隈重信らに出会い、国家を論じる。江戸幕府が倒れ、明治新政府の一員となった江藤は四民平等を目指して奔走。司法省を設立し、司法卿に就任すると、全国に裁判所を設置し、検事や判事などの職務を定め、誰もが公平な裁きを受けられるよう、司法制度を構築した。 ところが、1873年、征韓論をめぐり、政権の中枢にいた大久保利通らと対立。江藤は政府を去り、日本初の政治政党を立ち上げる。そんな江藤を政府は危険人物と見なし、佐賀に鎮圧部隊を派遣。江藤は佐賀の乱を起こして戦うが、政府軍の圧倒的な戦力に敵わず、敗北。刑場の露と消えてしまう。江藤は明晰な頭脳を持ちながら、なぜ、佐賀の乱の首謀者となり、政府と戦うことになってしまったのか? 志半ばでこの世を去った江藤に対し、同郷の士・大隈重信はこんな言葉を残している。「江藤を失った国家は更に甚大なる損害であり、不幸であった」。1916年、江藤は明治政府時代に与えられていた正四位を追贈され、ようやく名誉回復を果たす。そこに尽力したのは、時の内閣総理大臣・大隈重信であった。佐賀市内の公園には郷土の偉人として、江藤の像が建てられている。今日に連綿と受け継がれている佐賀の人々の思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第91回「平賀源内・マルチクリエイターの破天荒人生」

江戸のマルチクリエイター・平賀源内の敗北から現代に通じる教訓を探る。1728年、高松藩の下級武士の家に生まれた源内は13歳の時に薬効のある動植物や鉱物などを研究する本草学を学び始め、22歳で高松藩に仕官する。3年後、長崎に遊学し、刺激を受けた源内は学者としての道を志し、27歳で妹婿に家督を譲り、江戸で本草学者・田村藍水に師事、大規模な薬品の展示会を開き、イベントプロデューサーとして注目される。 多才で好奇心旺盛な源内は、後に戯作と称される大衆文芸や浄瑠璃の作家としても人気を集める。さらに、摩擦で静電気発生させる装置、エレキテルを復元し、一躍、その名を高めた。ところが、秩父での鉱山開発に失敗し、人生の坂道を転がり始める。そして、52歳のある日、些細な口論をきっかけに人を殺めてしまう。科学、文学、芸術など幅広い分野で才能を発揮していた源内はなぜ、道を踏み外してしまったのか? 自ら出頭し、投獄された源内はおよそ1カ月後、破傷風を患い、そのまま獄中で亡くなった。享年52。源内の葬儀を取り仕切った、蘭学者で医師の杉田玄白は「非常」という言葉を多用し、亡き友への思いを綴った。「あぁ、何と変わった人よ。好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか」。晩年、源内はある一文を綴っていた。そこに込められた、自らの忸怩たる思いと信念とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
江戸のマルチクリエイター・平賀源内の敗北から現代に通じる教訓を探る。1728年、高松藩の下級武士の家に生まれた源内は13歳の時に薬効のある動植物や鉱物などを研究する本草学を学び始め、22歳で高松藩に仕官する。3年後、長崎に遊学し、刺激を受けた源内は学者としての道を志し、27歳で妹婿に家督を譲り、江戸で本草学者・田村藍水に師事、大規模な薬品の展示会を開き、イベントプロデューサーとして注目される。 多才で好奇心旺盛な源内は、後に戯作と称される大衆文芸や浄瑠璃の作家としても人気を集める。さらに、摩擦で静電気発生させる装置、エレキテルを復元し、一躍、その名を高めた。ところが、秩父での鉱山開発に失敗し、人生の坂道を転がり始める。そして、52歳のある日、些細な口論をきっかけに人を殺めてしまう。科学、文学、芸術など幅広い分野で才能を発揮していた源内はなぜ、道を踏み外してしまったのか? 自ら出頭し、投獄された源内はおよそ1カ月後、破傷風を患い、そのまま獄中で亡くなった。享年52。源内の葬儀を取り仕切った、蘭学者で医師の杉田玄白は「非常」という言葉を多用し、亡き友への思いを綴った。「あぁ、何と変わった人よ。好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか」。晩年、源内はある一文を綴っていた。そこに込められた、自らの忸怩たる思いと信念とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第90回「家康に天下を取らせた武将たち② 本多正信」

主君に背いた過去がありながら厚い信頼を獲得した名参謀・本多正信の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1538年、三河国に生まれた正信は1560年、家康の家臣として桶狭間の戦いに参加したが、3年後、三河一向一揆が起きると、一揆勢に加担し、家康に激しく抵抗した。1582年、帰参した正信は内政や外交など幅広い分野で才能を発揮。1590年、家康が関東に移封されると、相模玉縄1万石の大名となった。 家康の天下取りに力を尽くした正信は1605年に家康が隠居すると、家康・秀忠の二元政治を正信・正純親子で支える。そして、大坂の陣の翌年に家康が亡くなると、正信は後を追うようにこの世を去った。その後、本多家を継いだ正純は15万石を超える石高を得るが、1622年、謀反の嫌疑をかけられ、改易されてしまう。正信はなぜ、徳川家からの信頼を息子に引き継ぐことができなかったのか? 正信の嫡男・正純は加増されたことで周囲からの妬みを買い、秀忠暗殺の疑いをかけられ、改易処分に。幽閉された正純は最後まで無実を訴えながら帰らぬ人となった。正信の次男・政重は加賀前田家の家老となり、5万石という破格の待遇を受け、本多家の血脈を繋いだ。生前、正信は政重に書状を送り、親としての思いを伝えていた。そこに記されていた、正信が守ってほしかった教えとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
主君に背いた過去がありながら厚い信頼を獲得した名参謀・本多正信の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1538年、三河国に生まれた正信は1560年、家康の家臣として桶狭間の戦いに参加したが、3年後、三河一向一揆が起きると、一揆勢に加担し、家康に激しく抵抗した。1582年、帰参した正信は内政や外交など幅広い分野で才能を発揮。1590年、家康が関東に移封されると、相模玉縄1万石の大名となった。 家康の天下取りに力を尽くした正信は1605年に家康が隠居すると、家康・秀忠の二元政治を正信・正純親子で支える。そして、大坂の陣の翌年に家康が亡くなると、正信は後を追うようにこの世を去った。その後、本多家を継いだ正純は15万石を超える石高を得るが、1622年、謀反の嫌疑をかけられ、改易されてしまう。正信はなぜ、徳川家からの信頼を息子に引き継ぐことができなかったのか? 正信の嫡男・正純は加増されたことで周囲からの妬みを買い、秀忠暗殺の疑いをかけられ、改易処分に。幽閉された正純は最後まで無実を訴えながら帰らぬ人となった。正信の次男・政重は加賀前田家の家老となり、5万石という破格の待遇を受け、本多家の血脈を繋いだ。生前、正信は政重に書状を送り、親としての思いを伝えていた。そこに記されていた、正信が守ってほしかった教えとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第89回「家康に天下を取らせた武将たち① 酒井忠次」

晩年、徳川家康に冷遇されたと今日に伝わる酒井忠次の敗北から現代に通じる教訓を探る。1527年、三河国に生まれた忠次は幼い頃から家康の父・松平広忠に仕え、8歳の家康が今川義元の人質となり、駿府に向かう際には23歳の忠次が随行した。義元没後、三河平定に力を尽くした忠次は三方ヶ原の戦いや長篠・設楽ヶ原の戦いなどで智将ぶりを発揮。「海老すくい」と呼ばれる踊りで場を和ませるなど徳川家臣団からも慕われた。 家康が羽柴秀吉に従い、天下統一事業を支える中、眼病を患った忠次は62歳で長男・家次に家督を譲って隠居する。1590年、秀吉が北条氏を下し、家康が関東に移封された際、徳川四天王と称される他の3人には10万石以上の所領が与えられたが、酒井家当主・家次が拝領したのはわずか3万石だった。忠次は家康に直訴したものの、退けられてしまった。忠次はなぜ、家康に冷遇されてしまったのか? 隠居の身となった忠次は秀吉から1000石を拝領し、晩年を京都で暮らし、1596年、70歳で生涯を終えた。関ヶ原の戦い後、酒井家は譜代大名として徳川政権を支えていく。二代将軍・秀忠の代に嫡男・家次は越後高田藩10万石に移封され、孫の忠勝は出羽庄内藩14万石を与えられ、初代庄内藩主となる。そして幕末までおよそ250年、酒井家は庄内藩を治めていった。酒井家繁栄の礎を築いた酒井忠次の功績と魅力とは?
晩年、徳川家康に冷遇されたと今日に伝わる酒井忠次の敗北から現代に通じる教訓を探る。1527年、三河国に生まれた忠次は幼い頃から家康の父・松平広忠に仕え、8歳の家康が今川義元の人質となり、駿府に向かう際には23歳の忠次が随行した。義元没後、三河平定に力を尽くした忠次は三方ヶ原の戦いや長篠・設楽ヶ原の戦いなどで智将ぶりを発揮。「海老すくい」と呼ばれる踊りで場を和ませるなど徳川家臣団からも慕われた。 家康が羽柴秀吉に従い、天下統一事業を支える中、眼病を患った忠次は62歳で長男・家次に家督を譲って隠居する。1590年、秀吉が北条氏を下し、家康が関東に移封された際、徳川四天王と称される他の3人には10万石以上の所領が与えられたが、酒井家当主・家次が拝領したのはわずか3万石だった。忠次は家康に直訴したものの、退けられてしまった。忠次はなぜ、家康に冷遇されてしまったのか? 隠居の身となった忠次は秀吉から1000石を拝領し、晩年を京都で暮らし、1596年、70歳で生涯を終えた。関ヶ原の戦い後、酒井家は譜代大名として徳川政権を支えていく。二代将軍・秀忠の代に嫡男・家次は越後高田藩10万石に移封され、孫の忠勝は出羽庄内藩14万石を与えられ、初代庄内藩主となる。そして幕末までおよそ250年、酒井家は庄内藩を治めていった。酒井家繁栄の礎を築いた酒井忠次の功績と魅力とは?
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第88回 「宮本武蔵・望みを果たせなかった天下一の剣豪」

生涯に一度も負けたことがない天下無双の剣豪・宮本武蔵の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1582年、播磨国に生まれ、兵法家・新免無二の養子として厳しく育てられた武蔵は13歳で人生初勝利を飾って以来、剣の道を追求。関ヶ原の戦いに参加した後、足利将軍家の剣術師範を務めた名門・吉岡一門を破るなど、兵法家として名を上げる。そして1610年、かの有名な巌流島の戦いに勝利する。 その後、大坂の陣にも参戦した武蔵は明石藩の客分として城下町の整備を担当するなど、剣術以外でも才能を発揮。一方、天下一の兵法を広めるべく諸国を巡るが、自らが望む将軍家や尾張徳川家への仕官を果たすことができない。1640年、齢60歳を前にして、長年の夢を諦め、細川家の客分として生きる道を選ぶしかなかった。武蔵はなぜ、兵法家として日本の頂点に立つことができなかったのか? 武蔵は熊本藩主・細川忠利に客分として迎えられ、手厚い待遇を受けるが、程なくして忠利が病に倒れ、亡くなってしまう。武蔵は悲しみをこらえ、山中の洞窟に籠もり、自身の集大成とも言える兵法の極意を書き記す。それが今日、世界中で読み継がれている『五輪書』。そこに込められた思いとは?さらに2022年、武蔵の晩年の姿を示す、新史料が発見された。単なる剣豪にとどまらない、武蔵の知られざる実像とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
生涯に一度も負けたことがない天下無双の剣豪・宮本武蔵の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1582年、播磨国に生まれ、兵法家・新免無二の養子として厳しく育てられた武蔵は13歳で人生初勝利を飾って以来、剣の道を追求。関ヶ原の戦いに参加した後、足利将軍家の剣術師範を務めた名門・吉岡一門を破るなど、兵法家として名を上げる。そして1610年、かの有名な巌流島の戦いに勝利する。 その後、大坂の陣にも参戦した武蔵は明石藩の客分として城下町の整備を担当するなど、剣術以外でも才能を発揮。一方、天下一の兵法を広めるべく諸国を巡るが、自らが望む将軍家や尾張徳川家への仕官を果たすことができない。1640年、齢60歳を前にして、長年の夢を諦め、細川家の客分として生きる道を選ぶしかなかった。武蔵はなぜ、兵法家として日本の頂点に立つことができなかったのか? 武蔵は熊本藩主・細川忠利に客分として迎えられ、手厚い待遇を受けるが、程なくして忠利が病に倒れ、亡くなってしまう。武蔵は悲しみをこらえ、山中の洞窟に籠もり、自身の集大成とも言える兵法の極意を書き記す。それが今日、世界中で読み継がれている『五輪書』。そこに込められた思いとは?さらに2022年、武蔵の晩年の姿を示す、新史料が発見された。単なる剣豪にとどまらない、武蔵の知られざる実像とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第87回「明智光秀・丹波攻めと本能寺への序章」

冷静沈着、頭脳明晰で知られる智将・明智光秀の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1528年、美濃国に生まれたと伝わる光秀は1570年、織田軍として参加した金ヶ崎の戦いで武名を上げ、織田家臣団の中で最も早く一国一城の主となる。1573年、足利義昭が槇島城で挙兵した際にはすぐさま攻撃し、降伏させるなど、信長の信頼を勝ち取った光秀は1575年、丹波攻略戦の総大将を任されることになった。 国衆を次々と味方につけ、快進撃を続ける光秀は勝利を確信。翌1576年、丹波攻めの総仕上げとして、名将・荻野直正と黒井城の戦いに挑む。ところが、この時、味方の国衆・波多野秀治が突如、謀叛を起こす。明智軍は大惨敗、光秀は何とか逃げ延びたが、ショックで病に伏してしまった。周到な計画で、後に主君をも討ち果たすほどの名将が小豪族を相手にまさかの大失態。光秀の計算を狂わせたものとは何だったのか? 思いもよらぬ敗北を喫した光秀は病に伏しながらも、再戦を見据え、丹波攻めの新たな攻略拠点として、亀山城を造るよう指示。そして、この城を足掛かりに波多野氏の本拠・八上城を攻略すると、黒井城も落とし、念願の丹波平定を成し遂げた。さらに光秀は福知山城を築き、統治者としても力を尽くすが、安息の日々は続かず、信長から非情な命令が下される。その時、光成の脳裏によぎったものとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
冷静沈着、頭脳明晰で知られる智将・明智光秀の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1528年、美濃国に生まれたと伝わる光秀は1570年、織田軍として参加した金ヶ崎の戦いで武名を上げ、織田家臣団の中で最も早く一国一城の主となる。1573年、足利義昭が槇島城で挙兵した際にはすぐさま攻撃し、降伏させるなど、信長の信頼を勝ち取った光秀は1575年、丹波攻略戦の総大将を任されることになった。 国衆を次々と味方につけ、快進撃を続ける光秀は勝利を確信。翌1576年、丹波攻めの総仕上げとして、名将・荻野直正と黒井城の戦いに挑む。ところが、この時、味方の国衆・波多野秀治が突如、謀叛を起こす。明智軍は大惨敗、光秀は何とか逃げ延びたが、ショックで病に伏してしまった。周到な計画で、後に主君をも討ち果たすほどの名将が小豪族を相手にまさかの大失態。光秀の計算を狂わせたものとは何だったのか? 思いもよらぬ敗北を喫した光秀は病に伏しながらも、再戦を見据え、丹波攻めの新たな攻略拠点として、亀山城を造るよう指示。そして、この城を足掛かりに波多野氏の本拠・八上城を攻略すると、黒井城も落とし、念願の丹波平定を成し遂げた。さらに光秀は福知山城を築き、統治者としても力を尽くすが、安息の日々は続かず、信長から非情な命令が下される。その時、光成の脳裏によぎったものとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第86回「信長と長島一向一揆・織田家の行く末を定めた惨劇」

一度に多くの重臣を失い、織田家の命運を左右することになった織田信長の敗北から現代に通じる教訓を探る。1568年、上洛を果たした信長は足利義昭を室町幕府十五代将軍に据え、天下を治めようと目論むが、これに反発する者たちが手を結び、信長包囲網を形成する。その一角を成した、大坂本願寺の顕如は一向宗の門徒たちに呼びかけ、尾張との国境に位置する伊勢の長島で反信長の戦いを起こす。長島一向一揆である。 4年の間に3度行われたこの戦は、信長が生涯において最も苦戦した戦いの一つ。河川が複雑に流れる、独特の地形での戦いに苦しめられた信長は、長島周辺の諸城を落とすも、なかなか攻略することができない。破格の大軍を擁した3度目の戦いで2万人もの人々を焼き殺し、ようやく勝利を手にするが、頼りにしていた親族や重臣の多くを失ってしまった。信長はなぜ、多大な犠牲を払う結果を招いてしまったのか? 1574年、長島一向一揆を何とか鎮圧した信長は翌年、長篠・設楽原の戦いで武田軍に大勝した後、北陸に向かい、越前一向一揆を鎮圧した。一方、顕如は信長に追放された将軍・義昭の求めに応じ、再度、挙兵するが、味方が続々と崩れ、撤退を余儀なくされる。そして1580年、ようやく、その抗争に終止符が打たれた。もし、長島で多くの重臣を失うことがなければ、その後の織田家はどうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
一度に多くの重臣を失い、織田家の命運を左右することになった織田信長の敗北から現代に通じる教訓を探る。1568年、上洛を果たした信長は足利義昭を室町幕府十五代将軍に据え、天下を治めようと目論むが、これに反発する者たちが手を結び、信長包囲網を形成する。その一角を成した、大坂本願寺の顕如は一向宗の門徒たちに呼びかけ、尾張との国境に位置する伊勢の長島で反信長の戦いを起こす。長島一向一揆である。 4年の間に3度行われたこの戦は、信長が生涯において最も苦戦した戦いの一つ。河川が複雑に流れる、独特の地形での戦いに苦しめられた信長は、長島周辺の諸城を落とすも、なかなか攻略することができない。破格の大軍を擁した3度目の戦いで2万人もの人々を焼き殺し、ようやく勝利を手にするが、頼りにしていた親族や重臣の多くを失ってしまった。信長はなぜ、多大な犠牲を払う結果を招いてしまったのか? 1574年、長島一向一揆を何とか鎮圧した信長は翌年、長篠・設楽原の戦いで武田軍に大勝した後、北陸に向かい、越前一向一揆を鎮圧した。一方、顕如は信長に追放された将軍・義昭の求めに応じ、再度、挙兵するが、味方が続々と崩れ、撤退を余儀なくされる。そして1580年、ようやく、その抗争に終止符が打たれた。もし、長島で多くの重臣を失うことがなければ、その後の織田家はどうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第85回「松平定信・度が過ぎた寛政の改革」

江戸時代、田沼意次の後を受け、世直しに邁進した老中・松平定信の敗北から現代に通じる教訓を探る。1758年、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武の七男として江戸に生まれた定信は幼い頃から聡明で田安家を継ぐことを期待されていたが、白河藩主・松平定邦の養子に出され、白河藩主として天明の大飢饉に直面した領民の救済に力を尽くす。定信自ら質素倹約に努めた結果、白河藩は餓死者を出すことなく、この危機を乗り切る。 政治手腕を高く評価された定信は老中・田沼意次が失脚した翌年、30歳という異例の若さで十一代将軍・徳川家斉を補佐する老中首座に抜擢された。腐敗した政治の一掃を目指す定信は、敬愛する祖父・吉宗が手掛けた享保の改革にならい、政治、経済、文化など様々な分野で改革を推進する。ところが、意気揚々と社会の改善に取り組む中、突如、老中の職を解かれてしまう。定信はなぜ、幕府から追放されてしまったのか? 白河藩に戻った定信は、不作により困窮する民を救うため、灌漑用の溜池を持つ南湖公園を造らせた。ここは身分を問わず誰もが気軽に訪問できる憩いの園となる。さらに定信は失われてしまいがちな古美術品を絵に残し、後世に伝える文化保護活動に取り組み、浮世絵師・鍬形蕙斎に江戸庶民がいきいきと暮らす様子を描かせるなど、文化の発展にも力を尽くした。定信が真に欲していたものとは何だったのか? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
江戸時代、田沼意次の後を受け、世直しに邁進した老中・松平定信の敗北から現代に通じる教訓を探る。1758年、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武の七男として江戸に生まれた定信は幼い頃から聡明で田安家を継ぐことを期待されていたが、白河藩主・松平定邦の養子に出され、白河藩主として天明の大飢饉に直面した領民の救済に力を尽くす。定信自ら質素倹約に努めた結果、白河藩は餓死者を出すことなく、この危機を乗り切る。 政治手腕を高く評価された定信は老中・田沼意次が失脚した翌年、30歳という異例の若さで十一代将軍・徳川家斉を補佐する老中首座に抜擢された。腐敗した政治の一掃を目指す定信は、敬愛する祖父・吉宗が手掛けた享保の改革にならい、政治、経済、文化など様々な分野で改革を推進する。ところが、意気揚々と社会の改善に取り組む中、突如、老中の職を解かれてしまう。定信はなぜ、幕府から追放されてしまったのか? 白河藩に戻った定信は、不作により困窮する民を救うため、灌漑用の溜池を持つ南湖公園を造らせた。ここは身分を問わず誰もが気軽に訪問できる憩いの園となる。さらに定信は失われてしまいがちな古美術品を絵に残し、後世に伝える文化保護活動に取り組み、浮世絵師・鍬形蕙斎に江戸庶民がいきいきと暮らす様子を描かせるなど、文化の発展にも力を尽くした。定信が真に欲していたものとは何だったのか? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
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第84回「田沼意次・商業重視の経済政策の果て」

商業を活性化させる一方、賄賂政治を行った老中・田沼意次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1719年、旗本・田沼意行の子として江戸に生まれた意次は九代将軍・徳川家重の御側御用取次として幕政に関わりながら頭角を現す。十代将軍・徳川家治の時代に老中となった意次は重商主義を打ち出し、商人による株仲間を容認、営業の独占権を認める代わりに税を取るなど、年貢米以外にも幕府の財源を獲得した。 さらに南鐐二朱銀を流通させ、全国の貨幣を統一するなど、経済手腕を発揮し、繁栄の時代をもたらした。ところが、天明の大飢饉が発生すると、意次への風当たりが強くなる。そして翌年、意次の長男で若年寄を務める田沼意知が殺害されてしまう。さらに1786年には、最大の理解者であった将軍・家治が亡くなり、孤立した意次は老中の辞職を余儀なくされた。幕政を立て直した意次はなぜ、幕府を追われてしまったのか? 田沼政権崩壊の一因となったのが将軍暗殺というフェイクニュースまで生むことになった、庶民の怒りの感情であった。1787年、意次の孫・田沼意明が家督を継ぐと、田沼家は陸奥下村に転封され、意次が遠江に築いた相良城は破却されてしまう。それを病床で耳にした意次は1788年、70歳でひっそりとその人生に幕を下ろした。死を目前にした意次の思い、そして、家族に残した遺言とは? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
商業を活性化させる一方、賄賂政治を行った老中・田沼意次の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1719年、旗本・田沼意行の子として江戸に生まれた意次は九代将軍・徳川家重の御側御用取次として幕政に関わりながら頭角を現す。十代将軍・徳川家治の時代に老中となった意次は重商主義を打ち出し、商人による株仲間を容認、営業の独占権を認める代わりに税を取るなど、年貢米以外にも幕府の財源を獲得した。 さらに南鐐二朱銀を流通させ、全国の貨幣を統一するなど、経済手腕を発揮し、繁栄の時代をもたらした。ところが、天明の大飢饉が発生すると、意次への風当たりが強くなる。そして翌年、意次の長男で若年寄を務める田沼意知が殺害されてしまう。さらに1786年には、最大の理解者であった将軍・家治が亡くなり、孤立した意次は老中の辞職を余儀なくされた。幕政を立て直した意次はなぜ、幕府を追われてしまったのか? 田沼政権崩壊の一因となったのが将軍暗殺というフェイクニュースまで生むことになった、庶民の怒りの感情であった。1787年、意次の孫・田沼意明が家督を継ぐと、田沼家は陸奥下村に転封され、意次が遠江に築いた相良城は破却されてしまう。それを病床で耳にした意次は1788年、70歳でひっそりとその人生に幕を下ろした。死を目前にした意次の思い、そして、家族に残した遺言とは? ■出演 進行:中西悠理(キャスター) 解説:伊東潤(歴史作家)
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第83回「黒田官兵衛・名軍師の糧となった若き日の失敗」

竹中半兵衛と共に「両兵衛」と称される黒田官兵衛の敗北から現代に通じる教訓を探る。1546年、姫路城代を務める黒田職隆の嫡男として播磨国に生まれた官兵衛は22歳で家督を継ぎ、父から主君・小寺政職の家老職も譲り受ける。そして、当時の情勢を冷静に分析し、小寺家を織田信長の配下に組み入れる。その後、信長の命により秀吉が中国攻めの指揮を執ると、官兵衛はこれに従軍し、戦いの渦に身を投じる。 しかし、若き官兵衛は命を落としかねない危機にも遭遇してしまう。1578年、信長から摂津国の統治を任されていた荒木村重が謀反を起こし、有岡城に籠城すると、官兵衛は村重を翻意させるべく、単身、城内に乗り込んだ。ところが、官兵衛は逆に村重に捕らえられ、一年近くもの長きにわたり、身柄を拘束されてしまう。官兵衛はなぜ囚われの身となってしまったのか?そして、官兵衛が監禁生活から学んだこととは? 官兵衛が一向に戻って来ないことに業を煮やした信長は人質にとっていた官兵衛の嫡男・長政を殺害するよう、秀吉に命じた。村重は1年近く籠城を続けるが、兵量の底が見え、毛利の援軍も来ないため、有岡城を脱出。すると、信長が有岡城に総攻撃を仕掛け、官兵衛はようやく自由の身となった。そこで官兵衛は初めて、長政が無事でいることを知る。その裏には、秀吉のもとで軍師として共に戦った盟友・竹中半兵衛の英断があった! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
竹中半兵衛と共に「両兵衛」と称される黒田官兵衛の敗北から現代に通じる教訓を探る。1546年、姫路城代を務める黒田職隆の嫡男として播磨国に生まれた官兵衛は22歳で家督を継ぎ、父から主君・小寺政職の家老職も譲り受ける。そして、当時の情勢を冷静に分析し、小寺家を織田信長の配下に組み入れる。その後、信長の命により秀吉が中国攻めの指揮を執ると、官兵衛はこれに従軍し、戦いの渦に身を投じる。 しかし、若き官兵衛は命を落としかねない危機にも遭遇してしまう。1578年、信長から摂津国の統治を任されていた荒木村重が謀反を起こし、有岡城に籠城すると、官兵衛は村重を翻意させるべく、単身、城内に乗り込んだ。ところが、官兵衛は逆に村重に捕らえられ、一年近くもの長きにわたり、身柄を拘束されてしまう。官兵衛はなぜ囚われの身となってしまったのか?そして、官兵衛が監禁生活から学んだこととは? 官兵衛が一向に戻って来ないことに業を煮やした信長は人質にとっていた官兵衛の嫡男・長政を殺害するよう、秀吉に命じた。村重は1年近く籠城を続けるが、兵量の底が見え、毛利の援軍も来ないため、有岡城を脱出。すると、信長が有岡城に総攻撃を仕掛け、官兵衛はようやく自由の身となった。そこで官兵衛は初めて、長政が無事でいることを知る。その裏には、秀吉のもとで軍師として共に戦った盟友・竹中半兵衛の英断があった! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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