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第35回「荒木村重・信長に反旗を翻した籠城戦」

偉人・敗北からの教訓

第35回「荒木村重・信長に反旗を翻した籠城戦」

レンタル期間:7日間

あらすじ

「妻子や家臣を見捨てた逃亡!」今回は織田信長に反旗を翻した家臣、荒木村重の敗北を紐解き、明日を生きるための教訓を探る。30代で摂津国の実権を掌握し、その後、信長に臣従した村重は、畿内の合戦のみならず、越前一向一揆などでも戦功を挙げ、西国政策を任せられるなど、異例の出世を遂げる。ところが、突如、居城である有岡城に立て籠もり、信長との対決姿勢を示す。
しかし、期待した毛利氏の援軍を得られず、籠城戦は一年にも及ぶ。追い込まれた村重は、わずかな家臣を連れ、有岡城を脱出。残された妻子や家臣、その家族ら600人以上が処刑されてしまう。村重はなぜ城を捨て、一族を見殺しにしてしまったのか?
その後、毛利家に亡命し、生きながらえた村重は、信長が本能寺の変で倒れた後、「道薫」を名乗り、茶人として表舞台に返り咲く。村重が人生の最晩年に目指したものとは?村重の願いは一族の子孫によって果たされることになる。

エピソード

第66回「丹羽長秀・忠誠を尽くした織田家との対峙」

織田四天王の一人に数えられ、織田信長の天下統一事業を支えた丹羽長秀の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、尾張国に生まれた長秀は16歳の時に1歳上の信長に仕えたとされ、信長から「友であり、兄弟である」と言われるほどの信頼を得たという。越前の朝倉氏を滅亡させ、若狭一国を拝領した長秀は、織田家臣の中で初めての国持大名となる。さらに、築城技術を買われ、安土城の建設指揮も務めた。 長秀は柴田勝家と並ぶ織田家の重臣となったが、本能寺の変を境にその立場が危うくなる。主君の敵討ちに成功した格下の羽柴秀吉が清洲会議の後、織田家の主導権を握ると、その後、織田家の当主を継いだ信長の次男・織田信雄と小牧・長久手の戦いで向き合うことに。この時、長秀は秀吉に従い、長年、忠誠を尽くした織田家と対峙せざるを得なかった。長秀はなぜ、秀吉の配下となってしまったのか? 長秀亡き後、嫡男・長重が123万石もの所領を引き継ぐが、秀吉により石高をわずか4万石に減らされてしまう。さらに長重は関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易されてしまうが、父・長秀譲りの築城技術が評価され、白河藩10万石の大名として復活を遂げる。長秀の孫・光重の代になると、二本松藩に転封となり、以後、幕末まで丹羽家は二本松藩主として君臨する。もし、長秀が長生きしていたら、どんな道を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
織田四天王の一人に数えられ、織田信長の天下統一事業を支えた丹羽長秀の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、尾張国に生まれた長秀は16歳の時に1歳上の信長に仕えたとされ、信長から「友であり、兄弟である」と言われるほどの信頼を得たという。越前の朝倉氏を滅亡させ、若狭一国を拝領した長秀は、織田家臣の中で初めての国持大名となる。さらに、築城技術を買われ、安土城の建設指揮も務めた。 長秀は柴田勝家と並ぶ織田家の重臣となったが、本能寺の変を境にその立場が危うくなる。主君の敵討ちに成功した格下の羽柴秀吉が清洲会議の後、織田家の主導権を握ると、その後、織田家の当主を継いだ信長の次男・織田信雄と小牧・長久手の戦いで向き合うことに。この時、長秀は秀吉に従い、長年、忠誠を尽くした織田家と対峙せざるを得なかった。長秀はなぜ、秀吉の配下となってしまったのか? 長秀亡き後、嫡男・長重が123万石もの所領を引き継ぐが、秀吉により石高をわずか4万石に減らされてしまう。さらに長重は関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易されてしまうが、父・長秀譲りの築城技術が評価され、白河藩10万石の大名として復活を遂げる。長秀の孫・光重の代になると、二本松藩に転封となり、以後、幕末まで丹羽家は二本松藩主として君臨する。もし、長秀が長生きしていたら、どんな道を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第65回「滝川一益・清洲会議に出られなかった織田四天王」

織田四天王に数えられた織田家の重臣・滝川一益の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1525年、近江国の土豪の家に生まれたと伝えられる一益は、尾張統一を目指す織田信長に仕えると、徳川家康との同盟交渉をまとめ、家臣団の中で頭角を現します。さらに、長島一向一揆を鎮圧し、北伊勢の攻略に成功、長篠・設楽原の戦いでは鉄砲隊の総指揮を執るなどの働きを見せ、織田家中での地位を高めていきます。 1582年、甲州攻めの指揮を執り、武田勝頼を討ち取った一益は、関東全域の経営を任されるまでになりました。ところが、本能寺の変で主君・信長が横死すると、関東の諸勢力が動き出し、一益は北条氏との戦いに敗れます。その後、急いで伊勢に急いで戻ろうとしたものの、織田家の重臣たちによる清洲会議への参加が叶わず、宿老の座を失ってしまいました。織田家屈指の実力者だった一益は、なぜ失脚してしまったのか? 1583年、賤ヶ岳の戦いが勃発すると、一益は柴田勝家に与し、羽柴秀吉を相手に善戦するも敗れます。一益は所領を全て没収され、蟄居を強いられてしまいました。その後、秀吉が信長の次男・織田信雄と対立し、小牧・長久手の戦いが始まると、秀吉に呼び戻され、羽柴軍として参戦します。戦場となる北伊勢の地に詳しい一益の力が求められたのです。一益は再起をかけて奮戦します。果たして、その運命は? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
織田四天王に数えられた織田家の重臣・滝川一益の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1525年、近江国の土豪の家に生まれたと伝えられる一益は、尾張統一を目指す織田信長に仕えると、徳川家康との同盟交渉をまとめ、家臣団の中で頭角を現します。さらに、長島一向一揆を鎮圧し、北伊勢の攻略に成功、長篠・設楽原の戦いでは鉄砲隊の総指揮を執るなどの働きを見せ、織田家中での地位を高めていきます。 1582年、甲州攻めの指揮を執り、武田勝頼を討ち取った一益は、関東全域の経営を任されるまでになりました。ところが、本能寺の変で主君・信長が横死すると、関東の諸勢力が動き出し、一益は北条氏との戦いに敗れます。その後、急いで伊勢に急いで戻ろうとしたものの、織田家の重臣たちによる清洲会議への参加が叶わず、宿老の座を失ってしまいました。織田家屈指の実力者だった一益は、なぜ失脚してしまったのか? 1583年、賤ヶ岳の戦いが勃発すると、一益は柴田勝家に与し、羽柴秀吉を相手に善戦するも敗れます。一益は所領を全て没収され、蟄居を強いられてしまいました。その後、秀吉が信長の次男・織田信雄と対立し、小牧・長久手の戦いが始まると、秀吉に呼び戻され、羽柴軍として参戦します。戦場となる北伊勢の地に詳しい一益の力が求められたのです。一益は再起をかけて奮戦します。果たして、その運命は? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第64回「松平容保・会津戦争を招いた藩主の決断」

幕末、京都守護職として尊攘派の志士たちと戦った松平容保の敗北から現代に通じる教訓を探る。1835年、尾張徳川家の分家である高須藩主・松平義建の六男として生まれた容保は12歳の時に叔父の会津藩主・松平容敬の養子となり、会津の家風に基づく教えを叩き込まれる。18歳で会津藩主となった容保は28歳にして、京都守護職に就任。八月十八日の政変や禁門の変では主導的役割を果たし、都から長州勢を一掃する。 十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦いに突入。旧幕府軍が劣勢に立たされると、慶喜は大坂を脱出し、江戸へ逃れる。この時、容保も慶喜に随行した。朝敵と見なされた容保は江戸を追われ、戊辰戦争最大の激戦となる会津戦争に臨む。容保は新政府軍を相手におよそ一カ月間、籠城戦を展開するも、白旗を上げざるを得なかった。容保は何故、新政府軍との戦いに屈したのか? 戦後、容保は身柄を江戸に移され、蟄居生活を強いられた後、日光東照宮の宮司に任じられた。さらに、会津戦争終結から20年目に磐梯山が噴火、500人もの死者を出す大災害が発生すると、容保は多額の義援金を密かに会津に寄付していた。人知れず、会津の民に寄り添い、鎮魂の祈りを捧げ続けた容保はその5年後、59歳で波瀾の生涯に幕を降ろした。時代に翻弄されながらも、逞しく生きた松平容保の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
幕末、京都守護職として尊攘派の志士たちと戦った松平容保の敗北から現代に通じる教訓を探る。1835年、尾張徳川家の分家である高須藩主・松平義建の六男として生まれた容保は12歳の時に叔父の会津藩主・松平容敬の養子となり、会津の家風に基づく教えを叩き込まれる。18歳で会津藩主となった容保は28歳にして、京都守護職に就任。八月十八日の政変や禁門の変では主導的役割を果たし、都から長州勢を一掃する。 十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った後、王政復古の大号令が発せられ、鳥羽・伏見の戦いに突入。旧幕府軍が劣勢に立たされると、慶喜は大坂を脱出し、江戸へ逃れる。この時、容保も慶喜に随行した。朝敵と見なされた容保は江戸を追われ、戊辰戦争最大の激戦となる会津戦争に臨む。容保は新政府軍を相手におよそ一カ月間、籠城戦を展開するも、白旗を上げざるを得なかった。容保は何故、新政府軍との戦いに屈したのか? 戦後、容保は身柄を江戸に移され、蟄居生活を強いられた後、日光東照宮の宮司に任じられた。さらに、会津戦争終結から20年目に磐梯山が噴火、500人もの死者を出す大災害が発生すると、容保は多額の義援金を密かに会津に寄付していた。人知れず、会津の民に寄り添い、鎮魂の祈りを捧げ続けた容保はその5年後、59歳で波瀾の生涯に幕を降ろした。時代に翻弄されながらも、逞しく生きた松平容保の魅力とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第63回「徳川慶喜・戦線離脱した最後の将軍」

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1837年、徳川御三家の水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は尊王思想の水戸学を徹底的に叩き込まれた後、 一橋家の養子となり、家督を継承。桜田門外の変で幕府の大老・井伊直弼が暗殺されると、将軍後見職として幕府の立て直しに奔走する。やがて、京都で尊王攘夷運動が活発化すると、長州藩を中心とする過激な志士たちの一掃を図る。 十四代将軍・徳川家茂が亡くなり、十五代将軍に就任した慶喜は1867年に大政奉還を実施。しかし、その後、王政復古の大号令が発せられ、徳川家を排除した新政府が樹立してしまう。旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と争うが、すぐに劣勢に立たされる。すると、総大将の慶喜はあろうことか兵たちを見捨て、大坂から江戸へ脱出してしまった。慶喜は幕府の存亡をかけた戦いで、なぜ戦うことなく逃亡したのか? 江戸に戻った慶喜は勝海舟らにその後の対応を任せ、江戸無血開城後、静岡で謹慎生活を送ることに。そして、写真や絵画、刺繍、自転車、釣りなど、様々な趣味に没頭する。謹慎が解かれた後も、そのまま静岡に住み続け、公職に復帰することは生涯なかった。幕末、国政の最高責任者となった慶喜はなぜ政界から完全に身を引いたのか?そして、どんな思いで明治の新時代を過ごしたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1837年、徳川御三家の水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれた慶喜は尊王思想の水戸学を徹底的に叩き込まれた後、 一橋家の養子となり、家督を継承。桜田門外の変で幕府の大老・井伊直弼が暗殺されると、将軍後見職として幕府の立て直しに奔走する。やがて、京都で尊王攘夷運動が活発化すると、長州藩を中心とする過激な志士たちの一掃を図る。 十四代将軍・徳川家茂が亡くなり、十五代将軍に就任した慶喜は1867年に大政奉還を実施。しかし、その後、王政復古の大号令が発せられ、徳川家を排除した新政府が樹立してしまう。旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と争うが、すぐに劣勢に立たされる。すると、総大将の慶喜はあろうことか兵たちを見捨て、大坂から江戸へ脱出してしまった。慶喜は幕府の存亡をかけた戦いで、なぜ戦うことなく逃亡したのか? 江戸に戻った慶喜は勝海舟らにその後の対応を任せ、江戸無血開城後、静岡で謹慎生活を送ることに。そして、写真や絵画、刺繍、自転車、釣りなど、様々な趣味に没頭する。謹慎が解かれた後も、そのまま静岡に住み続け、公職に復帰することは生涯なかった。幕末、国政の最高責任者となった慶喜はなぜ政界から完全に身を引いたのか?そして、どんな思いで明治の新時代を過ごしたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第62回「吉田松陰・安政の大獄に散った苛烈な思想家」

幕末、松下村塾を開いた思想家で教育者の吉田松陰の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた松陰は25歳の時、日米和親条約締結のために来航したペリーの黒船での密航を企てる。しかし、計画は失敗し、長州に強制送還され、投獄されてしまう。出獄後は欧米の脅威に対抗できる優れた人材を育成すべく、身分・階級を問わず、誰もが学べる松下村塾を開き、多くの門下生を受け入れる。 1858年、大老・井伊直弼らが日米修好通商条約を締結すると、松陰は幕府を公然と批判し、老中の暗殺及び革命を計画。すると、長州藩は松下村塾を閉鎖し、松陰を投獄する。しかし、それで事は収まらず、幕府は松陰を江戸に呼び出し、徹底的に取り調べを行うことに。そこで松陰はなんと自らテロ計画を告白、斬首刑に処せられてしまう。松陰はなぜ、死罪を覚悟で自身の考えを打ち明けたのか? 山口県萩市にある松陰神社には、松下村塾の一部が大切に保存されている。松陰の門下生には、初代内閣総理大臣となる伊藤博文や二度、総理大臣を務めた山縣有朋など、明治の政治を主導する者たちがいた。松陰の教えを胸に刻んだ志士たちが倒幕を成し遂げ、明治の新時代を導いたのだ。もし、松陰が幕末、黒船に乗り、アメリカに渡っていたら、その後、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
幕末、松下村塾を開いた思想家で教育者の吉田松陰の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた松陰は25歳の時、日米和親条約締結のために来航したペリーの黒船での密航を企てる。しかし、計画は失敗し、長州に強制送還され、投獄されてしまう。出獄後は欧米の脅威に対抗できる優れた人材を育成すべく、身分・階級を問わず、誰もが学べる松下村塾を開き、多くの門下生を受け入れる。 1858年、大老・井伊直弼らが日米修好通商条約を締結すると、松陰は幕府を公然と批判し、老中の暗殺及び革命を計画。すると、長州藩は松下村塾を閉鎖し、松陰を投獄する。しかし、それで事は収まらず、幕府は松陰を江戸に呼び出し、徹底的に取り調べを行うことに。そこで松陰はなんと自らテロ計画を告白、斬首刑に処せられてしまう。松陰はなぜ、死罪を覚悟で自身の考えを打ち明けたのか? 山口県萩市にある松陰神社には、松下村塾の一部が大切に保存されている。松陰の門下生には、初代内閣総理大臣となる伊藤博文や二度、総理大臣を務めた山縣有朋など、明治の政治を主導する者たちがいた。松陰の教えを胸に刻んだ志士たちが倒幕を成し遂げ、明治の新時代を導いたのだ。もし、松陰が幕末、黒船に乗り、アメリカに渡っていたら、その後、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第61回「太田道灌・文武両道の名将の最期」

第61回「太田道灌・文武両道の名将の最期」

文武両道の名将で築城名人や歌人としても名高い太田道灌の敗北から現代に通じる教訓を探る。1432年、相模国の守護代を務める太田道真の嫡男として生まれた道灌は、鎌倉五山と称される禅宗寺院や下野国にあった高等教育機関、足利学校で学問に打ち込み、父同様、扇谷上杉家に仕えた。24歳の時、戦国時代の先駆けとも言われる一大抗争、享徳の乱が勃発。その最中、防衛拠点として築いた城が江戸城である。 そして、戦いが激化する中、新たな騒動が起こる。扇谷上杉家の上位にあり、実質的に関東の統治にあたっていた山内上杉家の内乱、長尾景春の乱である。道灌はこの争乱の鎮圧に力を尽くす中、自らの勢力を拡大し、関東一円に武名を轟かせる。ところが、ある日、自らの主君にあたる扇谷上杉家の当主に呼び出され、その家臣に暗殺されてしまった。道灌は何故、突然、命を奪われてしまったのか? 合戦中も自らの居城である江戸城で歌会を開くなど、歌人としても名を馳せた道灌。中でも有名なのが「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という古歌を題材にした逸話で、勉強熱心な道灌の性格を物語る話として江戸庶民の間に広まった。道灌が江戸時代に人気を集めた理由とは?そして、もし、道灌が暗殺されなかったら、その後、どんな展開になっていたのか?
文武両道の名将で築城名人や歌人としても名高い太田道灌の敗北から現代に通じる教訓を探る。1432年、相模国の守護代を務める太田道真の嫡男として生まれた道灌は、鎌倉五山と称される禅宗寺院や下野国にあった高等教育機関、足利学校で学問に打ち込み、父同様、扇谷上杉家に仕えた。24歳の時、戦国時代の先駆けとも言われる一大抗争、享徳の乱が勃発。その最中、防衛拠点として築いた城が江戸城である。 そして、戦いが激化する中、新たな騒動が起こる。扇谷上杉家の上位にあり、実質的に関東の統治にあたっていた山内上杉家の内乱、長尾景春の乱である。道灌はこの争乱の鎮圧に力を尽くす中、自らの勢力を拡大し、関東一円に武名を轟かせる。ところが、ある日、自らの主君にあたる扇谷上杉家の当主に呼び出され、その家臣に暗殺されてしまった。道灌は何故、突然、命を奪われてしまったのか? 合戦中も自らの居城である江戸城で歌会を開くなど、歌人としても名を馳せた道灌。中でも有名なのが「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という古歌を題材にした逸話で、勉強熱心な道灌の性格を物語る話として江戸庶民の間に広まった。道灌が江戸時代に人気を集めた理由とは?そして、もし、道灌が暗殺されなかったら、その後、どんな展開になっていたのか?
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第60回「片桐且元・豊臣家滅亡を見届けた家老」

豊臣家の滅亡を見届けた家老・片桐且元の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1556年、近江国に生まれた且元は浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉の家臣となる。且元がその名を轟かせたのは賤ヶ岳の戦い。加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる活躍をし、秀吉の勝利に貢献したのだ。その後、秀吉の天下統一事業を陰で支えた且元は、関ヶ原の戦いの後、豊臣家の家老を任される。 1614年、徳川家康が方広寺の梵鐘に刻まれた文字に激怒し、豊臣家と徳川家の間に亀裂が走る。すると、且元は弁明のため、駿府を訪れる。その後、大坂城に戻った且元は、主君・豊臣秀頼に豊臣家を守るための三つの条件を提示した。ところが、その条件は全て拒否され、且元は城を追われてしまう。そして、大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡の道を歩んでしまう。且元はなぜ豊臣家を救うことができなかったのか? 大坂城からの退去を余儀なくされた且元。すると、家康は、徳川家との取次役を追放したのは宣戦布告に等しいと判断し、諸大名に豊臣攻めの命を下す。豊臣家を追われた且元は不本意ではあるが、徳川軍の一員として大坂攻めに加わるしかなかった。豊臣家の終焉を見届けた且元はその20日後、病によって、この世を去った。もし、且元が提示した条件を秀頼と淀殿が受け入れていたら、どうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
豊臣家の滅亡を見届けた家老・片桐且元の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1556年、近江国に生まれた且元は浅井長政に仕えた後、羽柴秀吉の家臣となる。且元がその名を轟かせたのは賤ヶ岳の戦い。加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる活躍をし、秀吉の勝利に貢献したのだ。その後、秀吉の天下統一事業を陰で支えた且元は、関ヶ原の戦いの後、豊臣家の家老を任される。 1614年、徳川家康が方広寺の梵鐘に刻まれた文字に激怒し、豊臣家と徳川家の間に亀裂が走る。すると、且元は弁明のため、駿府を訪れる。その後、大坂城に戻った且元は、主君・豊臣秀頼に豊臣家を守るための三つの条件を提示した。ところが、その条件は全て拒否され、且元は城を追われてしまう。そして、大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡の道を歩んでしまう。且元はなぜ豊臣家を救うことができなかったのか? 大坂城からの退去を余儀なくされた且元。すると、家康は、徳川家との取次役を追放したのは宣戦布告に等しいと判断し、諸大名に豊臣攻めの命を下す。豊臣家を追われた且元は不本意ではあるが、徳川軍の一員として大坂攻めに加わるしかなかった。豊臣家の終焉を見届けた且元はその20日後、病によって、この世を去った。もし、且元が提示した条件を秀頼と淀殿が受け入れていたら、どうなっていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第59回「細川ガラシャ・キリスト教に殉じた謀叛人の娘」

戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。 その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか? ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
戦国大名の妻、そして、敬虔なキリシタンとして生き抜いた細川ガラシャの敗北から現代に通じる教訓を探る。1563年、明智光秀の娘として生まれたガラシャは16歳の時に父・光秀の主君である織田信長の勧めにより、織田家臣である細川藤孝の嫡男・細川忠興と結婚。すぐに子宝に恵まれるが、4年後、父・光秀が本能寺の変を起こし、運命が一変する。謀叛人の娘となったガラシャは鄙びた山里に隠棲させられてしまう。 その後、大坂の細川屋敷で暮らし始めるが、外出を禁じられ、鬱々とした日々を過ごすことに。そんな中、キリスト教と出会い、洗礼を受ける。夫の主君・豊臣秀吉が亡くなると、忠興は徳川家康に与し、会津攻めに向かった。その最中、石田三成らが挙兵し、ガラシャが住む屋敷が包囲されてしまう。その時、ガラシャは人質になるのを頑なに拒み、命を絶った。ガラシャはなぜ、生き延びる選択をしなかったのか? ガラシャの信仰と非業の死はイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられた。17世紀末にはガラシャをヒロインとするオペラがウィーンの劇場で上演され、好評を博したという。ガラシャが新婚時代を過ごした京都府長岡京市では毎年11月、ガラシャの輿入れを再現した祭りが開かれ、地元の名物となっている。もし、ガラシャが自害せず、生き延びていたら、どんな人生を歩んだのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第58回「大谷吉継・関ヶ原に散った智将の野望と真実」

病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。 さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか? 吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
病を患いながらも、戦国乱世を生き抜いた大谷吉継の敗北から現代に通じる教訓を探る。1565年、近江国に生まれたと伝えられる吉継は若くして羽柴秀吉の小姓となり、後に盟友となる石田三成と出会う。秀吉が主君・織田信長の命に従い、中国攻めを進めると、吉継は馬廻衆として従軍。信長亡き後、三成と共に秀吉の天下統一事業に貢献した吉継は1589年、越前国の敦賀城主として君臨する。 さらに秀吉の最初の朝鮮出兵、文禄の役に参加するが、原因不明の病が悪化し、戦線離脱を余儀なくされる。そんな吉継が自らの人生をかけて挑んだ最後の合戦が、天下分け目の関ヶ原の戦い。吉継は三成と共に挙兵し、徳川家康率いる東軍と熾烈な争いを展開するが、最終決戦の舞台となった関ヶ原で窮地に追い込まれ、自ら命を絶つことに。吉継はなぜ、戦場で自刃せざるを得なかったのか? 吉継は敦賀城主だった時代に、福井県敦賀市にある永賞寺を再興し、自らの菩提寺と定めた。さらに地元の発展にも力を尽くす。古代から栄えた港町を吉継の時代に整備したことで、敦賀は江戸時代、さらなる発展を遂げていった。毎年9月に行われる祭りでは、つるがの山車に飾られた吉継の勇ましい姿に多くの視線が寄せられている。もし、関ヶ原の戦いがなかったら、吉継はどんな人生を歩んだのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第57回「清少納言・涙で綴った『枕草子』」

日本初の随筆と言われる『枕草子』の著者・清少納言の敗北から明日を生きるための教訓を探る。966年、和歌の名手・清原元輔の娘として、平安京に生まれたとされる清少納言は漢文や和歌の知識を買われ、一条天皇の后・藤原定子に仕えると、やがて、宮廷サロンの中心人物に躍り出る。ところが、定子の父である関白・藤原道隆が急死、さらに定子の兄と弟が失脚すると、俄かに雲行きが怪しくなる。 新たに政治の主導権を握ったのは道隆の弟・藤原道長だった。同僚らに道長との関係を疑われた清少納言は宮廷を去って引きこもる。その後、定子の計らいで清少納言は宮廷に戻り、懸命に定子を支えるが、定子は一条天皇の後継者候補となる初の男子を出産した直後に急逝、清少納言は失意の中で宮廷を後にする。清少納言はなぜ、敬愛する定子を守りきることができなかったのか?そして『枕草子』に込められたメッセージとは? 定子の死後、清少納言はしばし憔悴していたが、やがて再び筆を執る。書きかけだった『枕草子』の続きを書き始めたのだ。そこには、清少納言が定子たちと共に作り上げた華やかな文化と営みが鮮明に描き出された。清少納言は見たこと、感じたことをありのままに綴る随筆という新たな分野を開拓、その手法は多くの文人に影響を与え、今日に引き継がれている。もし、清少納言が現代に生きていたら、どんな文章を綴っていたのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
日本初の随筆と言われる『枕草子』の著者・清少納言の敗北から明日を生きるための教訓を探る。966年、和歌の名手・清原元輔の娘として、平安京に生まれたとされる清少納言は漢文や和歌の知識を買われ、一条天皇の后・藤原定子に仕えると、やがて、宮廷サロンの中心人物に躍り出る。ところが、定子の父である関白・藤原道隆が急死、さらに定子の兄と弟が失脚すると、俄かに雲行きが怪しくなる。 新たに政治の主導権を握ったのは道隆の弟・藤原道長だった。同僚らに道長との関係を疑われた清少納言は宮廷を去って引きこもる。その後、定子の計らいで清少納言は宮廷に戻り、懸命に定子を支えるが、定子は一条天皇の後継者候補となる初の男子を出産した直後に急逝、清少納言は失意の中で宮廷を後にする。清少納言はなぜ、敬愛する定子を守りきることができなかったのか?そして『枕草子』に込められたメッセージとは? 定子の死後、清少納言はしばし憔悴していたが、やがて再び筆を執る。書きかけだった『枕草子』の続きを書き始めたのだ。そこには、清少納言が定子たちと共に作り上げた華やかな文化と営みが鮮明に描き出された。清少納言は見たこと、感じたことをありのままに綴る随筆という新たな分野を開拓、その手法は多くの文人に影響を与え、今日に引き継がれている。もし、清少納言が現代に生きていたら、どんな文章を綴っていたのか?  【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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