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偉人・敗北からの教訓
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第44回「シリーズ家康① 家康と三河一向一揆」

偉人・敗北からの教訓

第44回「シリーズ家康① 家康と三河一向一揆」

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レンタル期間:7日間

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3週連続で天下人・徳川家康の敗北に注目する。第1回となる今回は、家康三大危機の一つ、三河一向一揆における若き日の家康の敗北から現代に通じる教訓を探る。1560年、桶狭間の戦いで主君・今川義元が討死すると、家康は今川家から独立し、三河の統一を目指す。これに義元の嫡男・今川氏真が激怒し、三河に侵攻。家康はその対応に追われ、一進一退の攻防が続く中、次第に兵が疲弊していく。
そんな中、家康の地元、岡崎を中心とする一向宗の信徒たちが大規模な暴動を起こす。その中には家康の家臣も多く含まれ、家臣団は分裂してしまう。およそ半年間にわたる戦いに苦しみ、窮地に追い込まれた家康は、信徒らが要求する条件を不服ながらも受け入れ、和睦する。家康はなぜ、一向宗の信徒たちと対立し、不利な条件での和睦を決断したのか?若き家康が犯した失敗とは?
一向宗と和睦し、今川勢を駆逐した家康はその後、周囲を騒然とさせる行動に出る。一向宗を禁教とし、僧侶たちを三河から追放、寺院を次々と破壊したのだ。さらに家康は一揆に加担した大半の家臣を追放処分とする厳しい措置をとった。自らに忠誠を誓い、共に行動する者だけを家臣とすることで、一枚岩の三河武士団が形成されていくことになる。もし、家康が一向宗に敗れていたら、その後、どんな展開になっていたのか?

エピソード

第108回「お市の方・信長の妹が背負った宿命」

戦国一の美貌を誇ったと伝わるお市の方の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、尾張の戦国大名・織田信秀の娘として生まれたと言われるお市は21歳の時、北近江の浅井長政と結婚する。それは兄・織田信長が浅井家との同盟を強化するための政略結婚だった。ところが、信長が足利義昭を奉じて上洛した後、越前の朝倉義景と敵対すると、長政は突如、信長に反旗を翻す。お市は兄と夫の戦いをただ見守るしかなかった。 1573年、浅井家が信長によって滅ぼされると、お市は娘の茶々、初、江と共に織田家に戻り、懸命に子育てに取り組むが、1582年、本能寺の変で兄・信長が横死すると、織田家筆頭家老・柴田勝家と結婚することに。しかし、翌年、勃発した賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に屈すると、お市は敵である秀吉に3人の娘を託し、夫・勝家と共に自刃の道を選択した。お市はなぜ、政略の渦中に身を投じ、命を散らしてしまったのか? お市の長女・茶々は秀吉の妻となり、秀頼を出産。次女・初は近江の大名・京極高次と結婚、三女・江は二度の縁組を経て、徳川秀忠の妻となった。お市の死から31年、三姉妹は大坂の陣で敵味方に分かれて向き合うことに。結果、豊臣家は滅亡し、茶々は母・お市と同様、自刃によって生涯を閉じた。初と江は天下泰平を導いた徳川政権のもと、穏やかな晩年を過ごした。激しい戦火を生き抜いたお市はどんな未来を見つめていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
戦国一の美貌を誇ったと伝わるお市の方の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、尾張の戦国大名・織田信秀の娘として生まれたと言われるお市は21歳の時、北近江の浅井長政と結婚する。それは兄・織田信長が浅井家との同盟を強化するための政略結婚だった。ところが、信長が足利義昭を奉じて上洛した後、越前の朝倉義景と敵対すると、長政は突如、信長に反旗を翻す。お市は兄と夫の戦いをただ見守るしかなかった。 1573年、浅井家が信長によって滅ぼされると、お市は娘の茶々、初、江と共に織田家に戻り、懸命に子育てに取り組むが、1582年、本能寺の変で兄・信長が横死すると、織田家筆頭家老・柴田勝家と結婚することに。しかし、翌年、勃発した賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に屈すると、お市は敵である秀吉に3人の娘を託し、夫・勝家と共に自刃の道を選択した。お市はなぜ、政略の渦中に身を投じ、命を散らしてしまったのか? お市の長女・茶々は秀吉の妻となり、秀頼を出産。次女・初は近江の大名・京極高次と結婚、三女・江は二度の縁組を経て、徳川秀忠の妻となった。お市の死から31年、三姉妹は大坂の陣で敵味方に分かれて向き合うことに。結果、豊臣家は滅亡し、茶々は母・お市と同様、自刃によって生涯を閉じた。初と江は天下泰平を導いた徳川政権のもと、穏やかな晩年を過ごした。激しい戦火を生き抜いたお市はどんな未来を見つめていたのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第107回「朝倉義景・京文化を愛でた大名家の滅亡」

織田信長と敵対し、滅ぼされた朝倉義景の敗北から現代に通じる教訓を探る。但馬国を発祥とする朝倉氏は南北朝時代に越前に入り、室町時代、越前の守護代に任ぜられた名門。七代当主・孝景の時代に越前一国を治める戦国大名となった。1533年に誕生した義景は16歳で十一代当主となり、武勇で名を馳せた宿老、朝倉宗滴の補佐を受け、政務や軍事に取り組む一方、朝倉氏代々の本拠地・一乗谷に京風の雅な文化を開花させた。 1565年、室町幕府十三代将軍・足利義輝が殺害されると、義景は義輝の弟・足利義昭を一乗谷で匿うが、義昭の上洛要請には応じなかった。義昭が信長を頼って上洛すると、義景は信長と対立し、苛烈な戦いに身を投じる。一時は信長を追い詰めるも、武田信玄を巻き込んで信長包囲網を強化する中、戦線を離脱。1573年、本拠地・一乗谷を焼かれ、自刃の道を選択せざるを得なかった。義景はなぜ、信長に屈してしまったのか? 義景の死後、義景の母と妻子は織田軍に命を絶たれ、五代100年余りの栄華を築いた、戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。三日三晩、炎上した後、長らく放置されていたという一乗谷の遺跡から、義景が抱いた夢の欠片が出土している。薩摩の島津氏らと通じ、琉球や大陸との交易も構想していたという義景は経済力と文化力を高めることでさらなる繁栄を導けると考えていた。義景が生涯をかけて追い求めた夢とは何だったのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
織田信長と敵対し、滅ぼされた朝倉義景の敗北から現代に通じる教訓を探る。但馬国を発祥とする朝倉氏は南北朝時代に越前に入り、室町時代、越前の守護代に任ぜられた名門。七代当主・孝景の時代に越前一国を治める戦国大名となった。1533年に誕生した義景は16歳で十一代当主となり、武勇で名を馳せた宿老、朝倉宗滴の補佐を受け、政務や軍事に取り組む一方、朝倉氏代々の本拠地・一乗谷に京風の雅な文化を開花させた。 1565年、室町幕府十三代将軍・足利義輝が殺害されると、義景は義輝の弟・足利義昭を一乗谷で匿うが、義昭の上洛要請には応じなかった。義昭が信長を頼って上洛すると、義景は信長と対立し、苛烈な戦いに身を投じる。一時は信長を追い詰めるも、武田信玄を巻き込んで信長包囲網を強化する中、戦線を離脱。1573年、本拠地・一乗谷を焼かれ、自刃の道を選択せざるを得なかった。義景はなぜ、信長に屈してしまったのか? 義景の死後、義景の母と妻子は織田軍に命を絶たれ、五代100年余りの栄華を築いた、戦国大名としての朝倉氏は滅亡した。三日三晩、炎上した後、長らく放置されていたという一乗谷の遺跡から、義景が抱いた夢の欠片が出土している。薩摩の島津氏らと通じ、琉球や大陸との交易も構想していたという義景は経済力と文化力を高めることでさらなる繁栄を導けると考えていた。義景が生涯をかけて追い求めた夢とは何だったのか? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第106回「家康に天下を取らせた武将たち④ 榊原康政」

「無」の旗印を掲げ、主君・徳川家康の覇業を支えた知勇兼備の名将・榊原康政の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1548年、三河国の下級武士の次男として生まれた康政は幼少期から勉学を好み、13歳で家康の小姓となる。16歳の時に三河一向一揆で初陣を果たすと、翌年、同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の合戦で活躍し、その武勇を轟かせた。 1590年、家康が関東に移封されると、康政は上野国館林10万石を与えられ、治水や街道整備などの内政にも尽力。1600年、豊臣政権を二分する戦いが勃発すると、康政は徳川秀忠率いる大軍の軍監として、東山道を西へ向かった。ところが、途中、真田昌幸が籠る上田城での戦いや悪天候の影響もあり、秀忠の関ヶ原遅参を招いてしまった。康政はなぜ、秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わせることができなかったのか? 関ヶ原で合戦の指揮を執れなかった康政は家康に詫びを入れ、秀忠には非がなく、許すよう説得した。戦後、家康は康政を館林10万石から水戸25万石に加増する旨を伝えたが、康政はこれを辞退。そして、家康が征夷大将軍の座を秀忠に譲った翌1606年、59歳でこの世を去った。康政にゆかりがある豊田、館林、姫路、上越の各市では毎年、市長が集い、「榊原サミット」を開いている。康政が今もなお、人々を魅了する理由とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「無」の旗印を掲げ、主君・徳川家康の覇業を支えた知勇兼備の名将・榊原康政の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1548年、三河国の下級武士の次男として生まれた康政は幼少期から勉学を好み、13歳で家康の小姓となる。16歳の時に三河一向一揆で初陣を果たすと、翌年、同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の合戦で活躍し、その武勇を轟かせた。 1590年、家康が関東に移封されると、康政は上野国館林10万石を与えられ、治水や街道整備などの内政にも尽力。1600年、豊臣政権を二分する戦いが勃発すると、康政は徳川秀忠率いる大軍の軍監として、東山道を西へ向かった。ところが、途中、真田昌幸が籠る上田城での戦いや悪天候の影響もあり、秀忠の関ヶ原遅参を招いてしまった。康政はなぜ、秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わせることができなかったのか? 関ヶ原で合戦の指揮を執れなかった康政は家康に詫びを入れ、秀忠には非がなく、許すよう説得した。戦後、家康は康政を館林10万石から水戸25万石に加増する旨を伝えたが、康政はこれを辞退。そして、家康が征夷大将軍の座を秀忠に譲った翌1606年、59歳でこの世を去った。康政にゆかりがある豊田、館林、姫路、上越の各市では毎年、市長が集い、「榊原サミット」を開いている。康政が今もなお、人々を魅了する理由とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第105回「家康に天下を取らせた武将たち③ 本多忠勝」

徳川家臣最強と謳われる名将・本多忠勝の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家の前身である松平家に古くから仕える譜代家臣・本多家の嫡男として、1548年、三河国に生まれた忠勝はわずか2歳で父・忠高を合戦で失い、叔父・忠真に厳しく育てられた。13歳で初陣を果たすと、三河一向一揆で本多一族の大半が一揆勢に付く中、家康に従い、信頼を勝ち取る。その後、家康が参加した、ほぼ全ての合戦に従軍し、武勇を示した。 織田信長や豊臣秀吉からも絶賛された忠勝は関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、戦後、初代桑名藩主となり、城下町の整備に力を尽くした。生涯に57回もの合戦に出陣し、かすり傷一つ負わなかったと言われる忠勝は1610年、63歳で生涯を閉じる。臨終間際にこう呟いて...。「死にたくない。家康様の恩義にもっと報いたい」。幾多の戦場で死をも恐れずに戦い続けた忠勝はなぜ、「死にたくない」と思ったのか? 忠勝の嫡男・忠政は桑名藩主として藩政に取り組んだ後、大坂の陣で武功を挙げ、戦後、姫路15万石に加増移封された。忠政の嫡男・忠刻は二代将軍・徳川秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫を妻に迎えた。そこには、忠勝に対する、家康の特別な思いがあった。その後、各地を転々とした本多家は江戸時代半ばに一族のルーツとも言える岡崎に移され、幕末まで岡崎藩主を務めた。忠勝が子々孫々に伝えたかった思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
徳川家臣最強と謳われる名将・本多忠勝の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家の前身である松平家に古くから仕える譜代家臣・本多家の嫡男として、1548年、三河国に生まれた忠勝はわずか2歳で父・忠高を合戦で失い、叔父・忠真に厳しく育てられた。13歳で初陣を果たすと、三河一向一揆で本多一族の大半が一揆勢に付く中、家康に従い、信頼を勝ち取る。その後、家康が参加した、ほぼ全ての合戦に従軍し、武勇を示した。 織田信長や豊臣秀吉からも絶賛された忠勝は関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、戦後、初代桑名藩主となり、城下町の整備に力を尽くした。生涯に57回もの合戦に出陣し、かすり傷一つ負わなかったと言われる忠勝は1610年、63歳で生涯を閉じる。臨終間際にこう呟いて...。「死にたくない。家康様の恩義にもっと報いたい」。幾多の戦場で死をも恐れずに戦い続けた忠勝はなぜ、「死にたくない」と思ったのか? 忠勝の嫡男・忠政は桑名藩主として藩政に取り組んだ後、大坂の陣で武功を挙げ、戦後、姫路15万石に加増移封された。忠政の嫡男・忠刻は二代将軍・徳川秀忠の長女で豊臣秀頼の正室だった千姫を妻に迎えた。そこには、忠勝に対する、家康の特別な思いがあった。その後、各地を転々とした本多家は江戸時代半ばに一族のルーツとも言える岡崎に移され、幕末まで岡崎藩主を務めた。忠勝が子々孫々に伝えたかった思いとは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第104回「井伊直弼・桜田門外に散った辣腕の大老」

幕末、幕府の方針に反する尊攘派の藩士らによって命を絶たれた井伊直弼の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1815年、彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた直弼は家督を継ぐ可能性がほぼなく、青年期には埋木舎と名付けられた屋敷で学問や居合、茶道などに没頭する日々を送っていた。ところが、1850年、兄である井伊家当主・井伊直亮が亡くなり、36歳にして彦根藩主に就任した。 1853年、黒船が来航、さらに将軍の後継者問題が起きると、直弼は幕府の混乱を収めるべく、大老に就任。天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、将軍の後継者を紀州派の徳川慶福に決めるなど辣腕を振るうと、さらに、秩序を乱す者を容赦なく弾圧する、安政の大獄に踏み切った。しかし、この強硬策が反感を買い、1860年、直弼は桜田門外で命を絶たれてしまう。直弼はなぜ、暗殺を避けることができなかったのか? 直弼の死を幕府はすぐには公表しなかった。藩主が後継者を指名する前に亡くなると、家が取り潰されてしまうからだ。幕府は混乱を避けるため、「大老は治療中」と偽り、井伊家の存続と跡継ぎの手続きを最優先で進めたという。しかし、直弼が暗殺されたという事実はすぐに知れ渡り、世の中は一気に幕末の騒乱の渦に飲み込まれていく。直弼は亡くなる年の正月にある歌を詠んでいた。直弼が歌に込めた思いとは?
幕末、幕府の方針に反する尊攘派の藩士らによって命を絶たれた井伊直弼の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1815年、彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた直弼は家督を継ぐ可能性がほぼなく、青年期には埋木舎と名付けられた屋敷で学問や居合、茶道などに没頭する日々を送っていた。ところが、1850年、兄である井伊家当主・井伊直亮が亡くなり、36歳にして彦根藩主に就任した。 1853年、黒船が来航、さらに将軍の後継者問題が起きると、直弼は幕府の混乱を収めるべく、大老に就任。天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印し、将軍の後継者を紀州派の徳川慶福に決めるなど辣腕を振るうと、さらに、秩序を乱す者を容赦なく弾圧する、安政の大獄に踏み切った。しかし、この強硬策が反感を買い、1860年、直弼は桜田門外で命を絶たれてしまう。直弼はなぜ、暗殺を避けることができなかったのか? 直弼の死を幕府はすぐには公表しなかった。藩主が後継者を指名する前に亡くなると、家が取り潰されてしまうからだ。幕府は混乱を避けるため、「大老は治療中」と偽り、井伊家の存続と跡継ぎの手続きを最優先で進めたという。しかし、直弼が暗殺されたという事実はすぐに知れ渡り、世の中は一気に幕末の騒乱の渦に飲み込まれていく。直弼は亡くなる年の正月にある歌を詠んでいた。直弼が歌に込めた思いとは?
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第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」

第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」

群雄割拠の戦国時代、関東甲信越の勢力争いに翻弄された上杉景虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1554年、相模の大名、北条氏康の子して生まれた三郎は幼くして箱根の早雲寺に預けられ、16歳の時、大叔父・北条幻庵の養子となる。しかし、ちょうどその頃、氏康が武田信玄に対抗すべく、上杉謙信と同盟を締結。この時、三郎が上杉家に養子に出され、名を景虎と改める。景虎は謙信の跡継ぎ候補として期待されていた。 しかし、跡継ぎ候補はもう一人いた。謙信の甥・上杉景勝である。1578年、謙信が急病により亡くなると、上杉家中を二分する内乱、御館の乱が勃発。この御家騒動は景虎の実家である北条氏をはじめ、周辺の有力大名を巻き込む、大規模な争乱に発展した。景虎は御館と呼ばれる屋敷を拠点に景勝と対峙するが、約10カ月後、景勝軍の猛攻に遭い、自刃へと追いやられてしまった。景虎はなぜ、景勝に屈してしまったのか? 景虎の死後、反景勝派の重臣たちはさらに1年以上も抵抗を続け、上杉家の内乱が完全に終息したのは1580年のことだった。越後を二分した争乱は一体、何をもたらしたのか?景虎が自刃した鮫ヶ尾城の近くにある勝福寺には、景虎の石像や供養塔が建っている。毎年4月29日に景虎の法要が営まれ、地元の人々は今も景虎の遺徳を偲んでいる。どうにもならない運命に翻弄され続けた景虎の人生が語りかけるものとは?
群雄割拠の戦国時代、関東甲信越の勢力争いに翻弄された上杉景虎の敗北から現代に通じる教訓を探る。1554年、相模の大名、北条氏康の子して生まれた三郎は幼くして箱根の早雲寺に預けられ、16歳の時、大叔父・北条幻庵の養子となる。しかし、ちょうどその頃、氏康が武田信玄に対抗すべく、上杉謙信と同盟を締結。この時、三郎が上杉家に養子に出され、名を景虎と改める。景虎は謙信の跡継ぎ候補として期待されていた。 しかし、跡継ぎ候補はもう一人いた。謙信の甥・上杉景勝である。1578年、謙信が急病により亡くなると、上杉家中を二分する内乱、御館の乱が勃発。この御家騒動は景虎の実家である北条氏をはじめ、周辺の有力大名を巻き込む、大規模な争乱に発展した。景虎は御館と呼ばれる屋敷を拠点に景勝と対峙するが、約10カ月後、景勝軍の猛攻に遭い、自刃へと追いやられてしまった。景虎はなぜ、景勝に屈してしまったのか? 景虎の死後、反景勝派の重臣たちはさらに1年以上も抵抗を続け、上杉家の内乱が完全に終息したのは1580年のことだった。越後を二分した争乱は一体、何をもたらしたのか?景虎が自刃した鮫ヶ尾城の近くにある勝福寺には、景虎の石像や供養塔が建っている。毎年4月29日に景虎の法要が営まれ、地元の人々は今も景虎の遺徳を偲んでいる。どうにもならない運命に翻弄され続けた景虎の人生が語りかけるものとは?
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第102回「伊達政宗・砕け散った南蛮貿易の夢」

独自の南蛮貿易により、莫大な富を得ようとした伊達政宗の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、出羽国生まれた政宗は18歳で家督を継ぐと、南奥州の強敵・蘆名氏を下し、天下への野心を燃やすが、1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉に臣従。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは100万石のお墨付きを得て東軍に参加し、東北の地で西軍の上杉景勝を攻めるが、約束された領土拡大はならなかった。 天下が徳川家康の手に渡っても、政宗はまだ諦めていなかった。海外から莫大な富を得るべく、家臣の支倉常長をはじめとする慶長遣欧使節を派遣。メキシコ・スペインと直接貿易を行おうとしたが、時を同じくして幕府が禁教令を発し、キリスト教の弾圧を強化した。この一報がヨーロッパにも伝わり、使節団の交渉が難航、結局、何の成果も得られぬまま、帰国せざるを得なくなった。政宗は南蛮貿易という壮大な夢をなぜ、諦めたのか? 1620年、政宗は幕府の意向に従い、禁教令を発し、領内のキリシタンを取り締まるが、スペインでキリスト教の洗礼を受けた支倉常長は棄教を拒んだまま、この世を去った。その後、幕府が鎖国政策を行ったことで、政宗が慶長遣欧使節を派遣した事実は忘れ去られるが、明治時代、岩倉使節団が派遣されたことで再び脚光を浴びる。大いなる野心を抱き、海外に目を向けた政宗は今日、どのような評価を受けているのか?
独自の南蛮貿易により、莫大な富を得ようとした伊達政宗の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1567年、出羽国生まれた政宗は18歳で家督を継ぐと、南奥州の強敵・蘆名氏を下し、天下への野心を燃やすが、1590年、天下統一に王手をかけた豊臣秀吉に臣従。秀吉没後の関ヶ原の戦いでは100万石のお墨付きを得て東軍に参加し、東北の地で西軍の上杉景勝を攻めるが、約束された領土拡大はならなかった。 天下が徳川家康の手に渡っても、政宗はまだ諦めていなかった。海外から莫大な富を得るべく、家臣の支倉常長をはじめとする慶長遣欧使節を派遣。メキシコ・スペインと直接貿易を行おうとしたが、時を同じくして幕府が禁教令を発し、キリスト教の弾圧を強化した。この一報がヨーロッパにも伝わり、使節団の交渉が難航、結局、何の成果も得られぬまま、帰国せざるを得なくなった。政宗は南蛮貿易という壮大な夢をなぜ、諦めたのか? 1620年、政宗は幕府の意向に従い、禁教令を発し、領内のキリシタンを取り締まるが、スペインでキリスト教の洗礼を受けた支倉常長は棄教を拒んだまま、この世を去った。その後、幕府が鎖国政策を行ったことで、政宗が慶長遣欧使節を派遣した事実は忘れ去られるが、明治時代、岩倉使節団が派遣されたことで再び脚光を浴びる。大いなる野心を抱き、海外に目を向けた政宗は今日、どのような評価を受けているのか?
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第101回「小田氏治・乱世に挑んだ常陸の不死鳥」

第101回「小田氏治・乱世に挑んだ常陸の不死鳥」

歴史ファンの間で「戦国最弱の武将」と称される小田氏治の敗北から現代に通じる教訓を探る。氏治が生まれた小田家は鎌倉時代に常陸の守護を務め、鎌倉幕府の十三人の合議制に加わった有力御家人・八田知家を祖とする名門。1531年に生まれたと考えられる氏治は18歳の時に小田家十五代当主となり、先祖伝来の土地と領民を守るため、必死に生き残りを図るが、本拠地・小田城が度々、陥落してしまう。 しかし、氏治はその都度、城を奪還し、武勇を示す。そのため、氏治は「常陸の不死鳥」とも呼ばれている。北関東に北条氏と上杉氏が勢力を拡大する中、氏治は近隣の結城氏、佐竹氏らと激戦を重ねるが、1590年、何度も成功してきた小田城の奪還に失敗、挙句の果てに所領を全て奪われてしまう。氏治はなぜ、名門・小田家を没落させてしまったのか?そして、本拠地・小田城の奪還にこだわり続けた理由とは? 全所領を失った氏治はかつての宿敵・結城氏の居城で晩年を過ごした。徳川家康の次男・結城秀康の客分となることが許され、300石を得たためである。そして氏治は関ヶ原の戦いの翌年、激動の人生に幕を降ろした。土浦市立博物館に氏治の人柄を偲ばせる史料が残されている。江戸時代半ば、氏治の百五十回忌に集まった人々の名簿である。「戦国最弱」と不名誉なキャッチフレーズを冠された氏治の実像と魅力は? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
歴史ファンの間で「戦国最弱の武将」と称される小田氏治の敗北から現代に通じる教訓を探る。氏治が生まれた小田家は鎌倉時代に常陸の守護を務め、鎌倉幕府の十三人の合議制に加わった有力御家人・八田知家を祖とする名門。1531年に生まれたと考えられる氏治は18歳の時に小田家十五代当主となり、先祖伝来の土地と領民を守るため、必死に生き残りを図るが、本拠地・小田城が度々、陥落してしまう。 しかし、氏治はその都度、城を奪還し、武勇を示す。そのため、氏治は「常陸の不死鳥」とも呼ばれている。北関東に北条氏と上杉氏が勢力を拡大する中、氏治は近隣の結城氏、佐竹氏らと激戦を重ねるが、1590年、何度も成功してきた小田城の奪還に失敗、挙句の果てに所領を全て奪われてしまう。氏治はなぜ、名門・小田家を没落させてしまったのか?そして、本拠地・小田城の奪還にこだわり続けた理由とは? 全所領を失った氏治はかつての宿敵・結城氏の居城で晩年を過ごした。徳川家康の次男・結城秀康の客分となることが許され、300石を得たためである。そして氏治は関ヶ原の戦いの翌年、激動の人生に幕を降ろした。土浦市立博物館に氏治の人柄を偲ばせる史料が残されている。江戸時代半ば、氏治の百五十回忌に集まった人々の名簿である。「戦国最弱」と不名誉なキャッチフレーズを冠された氏治の実像と魅力は? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」後編

「人は城、人は石垣、人は堀」との言葉を残した信玄は何よりも家臣を大切にした。信玄は館に住み、堅固な居城は造らなかったと考えられていたが、近年、新たな事実が判明した。なんと、甲府の街を要塞化していたのだ!越後への進出を断念した信玄は太平洋側の港を求め、駿河に侵攻。しかし、これが嫡男・義信の謀叛を招いてしまう。クーデターに失敗し、謎の死を遂げた義信。その真相を歴史学者・平山優が解き明かす! 義信亡き後、信玄の後継者となった勝頼は1573年に信玄が他界した事実をなんと3年も隠し続けた。その理由を甲州市にある信玄の菩提寺・恵林寺で探る。宝物・武田不動尊に込められた思いとは?勝頼は長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍にまさかの大敗を喫してしまうが、再起を図り、現在の韮崎市に巨大な城・新府城を築く。城郭ライター・萩原さちこが新府城の遺構を巡り、特徴を解説。勝頼が描いたビジョンを読み解く! 1582年、織田軍が甲州攻めを開始。勝頼は新府城を捨て逃亡、わずかな手勢で戦うも力尽き、名門・武田家は滅亡してしまう。伊東潤と中西悠理が最後に訪れたのは、勝頼の菩提寺・景徳院。二人は無念の最期を迎えた勝頼の心中に思いを馳せる。戦国大名としての武田氏は滅びたが、その後、高家として復活。一族の子孫が先祖から受け継ぐ家訓を語る。そして、武田三代の足跡を辿り、改めて実感した、今日に通じる教訓とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
「人は城、人は石垣、人は堀」との言葉を残した信玄は何よりも家臣を大切にした。信玄は館に住み、堅固な居城は造らなかったと考えられていたが、近年、新たな事実が判明した。なんと、甲府の街を要塞化していたのだ!越後への進出を断念した信玄は太平洋側の港を求め、駿河に侵攻。しかし、これが嫡男・義信の謀叛を招いてしまう。クーデターに失敗し、謎の死を遂げた義信。その真相を歴史学者・平山優が解き明かす! 義信亡き後、信玄の後継者となった勝頼は1573年に信玄が他界した事実をなんと3年も隠し続けた。その理由を甲州市にある信玄の菩提寺・恵林寺で探る。宝物・武田不動尊に込められた思いとは?勝頼は長篠・設楽原の戦いで織田・徳川軍にまさかの大敗を喫してしまうが、再起を図り、現在の韮崎市に巨大な城・新府城を築く。城郭ライター・萩原さちこが新府城の遺構を巡り、特徴を解説。勝頼が描いたビジョンを読み解く! 1582年、織田軍が甲州攻めを開始。勝頼は新府城を捨て逃亡、わずかな手勢で戦うも力尽き、名門・武田家は滅亡してしまう。伊東潤と中西悠理が最後に訪れたのは、勝頼の菩提寺・景徳院。二人は無念の最期を迎えた勝頼の心中に思いを馳せる。戦国大名としての武田氏は滅びたが、その後、高家として復活。一族の子孫が先祖から受け継ぐ家訓を語る。そして、武田三代の足跡を辿り、改めて実感した、今日に通じる教訓とは? 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」前編

第100回「武田三代SP 信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて」前編

伊東潤と中西悠理が甲府を起点に武田氏の足跡を辿る歴史旅。まず向かったのは、信玄を祭神として祀る武田神社。1519年、信玄の父・信虎がこの地に居館を移したことで甲府の街は発展した。武田神社の北東にそびえる要害山には武田氏の詰城も築かれた。武田家の菩提寺・大泉寺では信虎の肖像画や武田三代の木像を見ながら、各々の人物像に迫る。印傳博物館では武田軍団の甲冑や武具にも用いられた伝統の技と意匠を垣間見る。 富士河口湖町にある冨士御室浅間神社では甲斐の歴史を研究する上での基本史料と位置づけられる『勝山記』の記述をもとに、信虎の政治信条と行動を探る。1541年、信虎は息子・信玄らによるクーデターにより追放されてしまう。その裏には重臣たちの苦悩も!信虎の追放は悪逆無道な行為を重ね、家中や領民の間に不満が鬱積した結果だと伝わるが、信虎は本当に悪政を敷いていたのか?信虎の知られざる実像が今、明らかに! 武田家の家督を継いだ信玄は国力を強化すべく金山を開発。一行は身延町にある湯之奥金山を訪問し、金の採掘法を学ぶ。金山で働く金山衆の技術は武田氏の戦術にも活かされていた!さらに、採掘した金によって生まれたのが画期的な貨幣制度。富国強兵を推進する信玄は北への領土拡大を図り、苦心の末に北信濃の猛将・村上義清を下すと、日本海の港を手に入れるべく、越後を目指した。そして、川中島で宿敵・上杉謙信と激突する! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
伊東潤と中西悠理が甲府を起点に武田氏の足跡を辿る歴史旅。まず向かったのは、信玄を祭神として祀る武田神社。1519年、信玄の父・信虎がこの地に居館を移したことで甲府の街は発展した。武田神社の北東にそびえる要害山には武田氏の詰城も築かれた。武田家の菩提寺・大泉寺では信虎の肖像画や武田三代の木像を見ながら、各々の人物像に迫る。印傳博物館では武田軍団の甲冑や武具にも用いられた伝統の技と意匠を垣間見る。 富士河口湖町にある冨士御室浅間神社では甲斐の歴史を研究する上での基本史料と位置づけられる『勝山記』の記述をもとに、信虎の政治信条と行動を探る。1541年、信虎は息子・信玄らによるクーデターにより追放されてしまう。その裏には重臣たちの苦悩も!信虎の追放は悪逆無道な行為を重ね、家中や領民の間に不満が鬱積した結果だと伝わるが、信虎は本当に悪政を敷いていたのか?信虎の知られざる実像が今、明らかに! 武田家の家督を継いだ信玄は国力を強化すべく金山を開発。一行は身延町にある湯之奥金山を訪問し、金の採掘法を学ぶ。金山で働く金山衆の技術は武田氏の戦術にも活かされていた!さらに、採掘した金によって生まれたのが画期的な貨幣制度。富国強兵を推進する信玄は北への領土拡大を図り、苦心の末に北信濃の猛将・村上義清を下すと、日本海の港を手に入れるべく、越後を目指した。そして、川中島で宿敵・上杉謙信と激突する! 【出演】 解説:伊東潤(歴史作家) 進行:中西悠理(キャスター)
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