名城・熊本城を築き、三大築城名人の一人に数えられる加藤清正の敗北から現代に通じる教訓を探る。1562年、刀鍛冶の子として尾張国に生まれた清正は12歳の時に羽柴秀吉の小姓となり、その後、中国攻めに従軍。本能寺の変の後、秀吉が柴田勝家と争うと「賤ヶ岳の七本槍」の一人に名を連ねる活躍を見せ、秀吉の九州平定後、肥後北半国19万5000石の大名に出世した。さらに文禄・慶長の役でも武功を挙げる。
しかし、その最中に主君・秀吉が亡くなってしまう。清正は豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康に接近し、家康の養女を妻に迎えると、1600年、五大老の一人、上杉景勝を討伐すべく会津攻めへの従軍を志願する。ところが、あろうことか、家康に肥後での謹慎を命じられてしまう。その結果、清正は関ヶ原の戦いに参加することもできなかった。清正はなぜ、家康に従軍することを拒否されてしまったのか?
関ヶ原の戦いの後、清正は肥後南半国の領主で西軍に加わった小西行長の居城を攻めるなど、東軍に貢献し、肥後一国52万石の大大名となる。家康が江戸に幕府を開いた8年後、清正は京都・二条城で開かれる、家康と豊臣秀頼の歴史的会見に徳川家臣として同席。その帰路、突然の病に侵され、50歳で生涯を閉じた。二人の天下人に仕え、地元・熊本の人々を中心に「清正公さん」と呼ばれ、慕われている清正の魅力とは?
【出演】
解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)
名城・熊本城を築き、三大築城名人の一人に数えられる加藤清正の敗北から現代に通じる教訓を探る。1562年、刀鍛冶の子として尾張国に生まれた清正は12歳の時に羽柴秀吉の小姓となり、その後、中国攻めに従軍。本能寺の変の後、秀吉が柴田勝家と争うと「賤ヶ岳の七本槍」の一人に名を連ねる活躍を見せ、秀吉の九州平定後、肥後北半国19万5000石の大名に出世した。さらに文禄・慶長の役でも武功を挙げる。
しかし、その最中に主君・秀吉が亡くなってしまう。清正は豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康に接近し、家康の養女を妻に迎えると、1600年、五大老の一人、上杉景勝を討伐すべく会津攻めへの従軍を志願する。ところが、あろうことか、家康に肥後での謹慎を命じられてしまう。その結果、清正は関ヶ原の戦いに参加することもできなかった。清正はなぜ、家康に従軍することを拒否されてしまったのか?
関ヶ原の戦いの後、清正は肥後南半国の領主で西軍に加わった小西行長の居城を攻めるなど、東軍に貢献し、肥後一国52万石の大大名となる。家康が江戸に幕府を開いた8年後、清正は京都・二条城で開かれる、家康と豊臣秀頼の歴史的会見に徳川家臣として同席。その帰路、突然の病に侵され、50歳で生涯を閉じた。二人の天下人に仕え、地元・熊本の人々を中心に「清正公さん」と呼ばれ、慕われている清正の魅力とは?
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解説:伊東潤(歴史作家)
進行:中西悠理(キャスター)